バサラ2

□ある夏の日のエチュード
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 男のいやに温い涙は、嗜虐心を煽った。自身の肩や頬に、ぽたり、ぽたりと垂れる度に、ずくりと疼くのだ。その雫が湧き出す眼球を刔りたい。その嗚咽が洩れぬよう、喉を切り裂きたい。そんな残酷な思考が、肉体を支配する。
 しかし、だ。自身はその男の頭を優しく撫でてやる事しか出来なかった。
 それは何故か。男が自身にその行為を求めたからだ。他には何の理由も、また自身の意思など存在しない。ただ男が望んだ、それだけである。

 ※※※

 自身の中に存在している欲望が、あんなにも強大で醜いものだとは思わなかった。心が優しく締め付けられるような感覚ではない。心が鎖で締め上げられるような感覚だ。それに支配される内、いつの間にか肉体までも汚染されていったのだろう。
 あの男を目にする度に、涎が垂れるような空腹を覚えた。あの男の全てを、自身で満たせたならばどんなにいいか。
 しかしその一方で、ただ男を抱きしめるだけで満たされるのではないかとも思うのだ。どちらにしろ、欲には違いないのだが。
 男に対する欲は偽りなく、自身を真っ直ぐに貫く清廉なものであると思っていた。つまり、恋慕の感情である。
 ただそれが報われぬと自覚する余り、どうにかならぬものかと不毛な思考がとぐろを巻く。それが熟したものが、男に対する憎悪である。それらが共に生存していく内、自身は知らぬ間に対策を打ち出し、肉体は始動していた。

 まず、自身が男に対してどんな感情を抱いているのか、それを知らしめなければならない。と同時に、拒絶という行為を自ら拒絶させる為の細工も必要であった。
 難儀であると思ったが、あれだけ憎んだ自身と男の立場のお陰で、手っ取り早く事が進んだ。それは最も短絡的で、憎まれる行為。侵略である。

 男は、今にも喉笛を噛み切らんばかりに此方を見上げていた。きつくその皮膚を締め付ける縄から、ぎちぎちと音が絶え間なく洩れる。血涙を流すとは、まさにこの事だろう。皮膚が切れた額からたらりと血が垂れ、まるで涙のように男の瞼の上を伝った。
 しかし、男は何の罵倒も言わなかった。いや、言えなかった。自害させぬ為の猿轡の隙間から、ただ呪詛のような息が洩れるだけだ。
 哀れな男の姿を見て嘆くは、これまた哀れな人の群れ。まるで男が神であるかのように、助けを求めている。喚く赤子の声に、必死に黙らせようとうろたえる母親。力という無用の長物を持て余す男共の怒号。まるで耳がついていないかのように、この光景を静観する老婆。幼い子供は、嘆く親たちの様子にひたすら怯えていた。

「痛むか……?」

 止血した布の上から、ぎちりと男の傷を握り込んだ。男は目を見開くと、猿轡を噛み締めながら息を激しく吐き出した。その大きな瞳からは、痛みからか涙が零れ落ちそうになっていた。
 男の呻きと共に、大きく響く群れの罵倒。振り返って視線を向けても、それが止む気配はない。男同様、見上げた根性ではあるが……、空気がびりりと痺れる雑音がえらく耳障りだ。目配せをし、何発か渇いた音を響かせてやれば、面白いようにばたり、ばたりと三回ほど音が地面を叩いた。
 そう殺してやったのだ。お前の民を。
 男はというと、事態が飲み込めぬと言わんばかりに、その音が鳴った方を見つめていた。殺さぬとでも思っていたのだろうか。
 暫しの沈黙後、男が殺してやると口走ったような気がした。
 男と民にゆるゆると絡み付いた糸。それをぎしりと引く時がついにやって来たのだ。男の口から猿轡を丁寧に外し、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。

「俺が今から言う事を、ただ黙って聞いてりゃいい。まぁ、あんたが何か言いたいってんなら別だが」

 男は此方を睨みつけるようにしながら、懸命に荒立つ息を整えた。

「俺はこの地が欲しい訳じゃねえ。民の命なんざ、どうでもいい。ただ手に入れてぇもんがあったから、それだけの理由で殺した」

 男が言葉を発しない辺りからして、理解したのだろう。賢明だ。

「それを見ると、心臓がばくばく、ばくばく鳴るんだ。喉が渇いたみてぇに苦しくて身体が熱くなる。どうしようもなくなる程に」

 ふっと男に身体を寄せ、その耳だけに聞こえるような声音で続けた。

「なあ、分かるか?あんたの事だぜ。真田幸村」

 男は驚いたように、此方に顔を向けた。その様にふっと笑みを向ければ、男は軽く唇を噛んだ。

 
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