「まったく、君は自分の酒量をもっと把握するべきだ」 ガタン、と音をたてて晴香の部屋のドアを開けると、八雲は背中の『お荷物』を抱え直して中に入った。 今夜は、後藤の家で晩御飯をご馳走になった。 酒好きな大人が集まれば、当たり前にアルコールが出る。 今日も例外ではなかった。そして結果がこれだ。 自分のスニーカーを脱ぎ、手探りで背中の『お荷物』のパンプスを脱がし、そのまま適当に落とす。後で素面に戻った晴香に「玄関なんだからきちんと」なんて目くじら立てて言われようが、知ったこっちゃない。 大体、酒を飲んで、傍(はた)からみても危ういという状態なのに、敦子からの泊まりの誘いを断り、人を引っ張って無理矢理送らせといてタクシーも断った挙句に帰り道に「もう歩けない」と道端にしゃがみ込む彼女が悪い。 気持ち悪くないのはまだ幸いだったけれど、大きな荷物を背負ってここまで送ってきた方の身からすれば、たまったものじゃない。 八雲は腕に引っ掛けていた女物のバッグも床に放り、やっと辿り着いたベッドに腰掛けるようにして、背中のお荷物を少し乱暴に降ろした。 「わあ、びっくり」 ぼうん、とスプリングを弾ませてマットレスに転がせば、明るい声で晴香が呑気に驚く。 「何がびっくりだ。ここまで重たい荷物を運んできたこっちは肩が痛くて堪らない」 八雲はぐっと伸びをして、首をまず左右交互に傾ける。それからぐるりと回して強張った筋肉をほぐした。 「私、そんなに重たくないもーん」 「いや、充分過ぎる程の重量だ」 即否定をすればつかさず脚が飛んできて、八雲の背中をぺしっと打つ。大した打撃ではなかったけれど、足蹴にされれば当たり前に面白くない。八雲は上体を反転させて仕返しとばかりに彼女を押さえ込んだ。 途端、晴香がはっと息を呑む。 柔らかくしなやかな身体を胸板と腕で閉じ込め、八雲は上から晴香の目を覗き込んだ。 「道中ずっとおぶってきた人間に対してすることがそれか?」 おぶってきただけじゃない。 酔っ払ってはいても、眠ったり意識の混濁の無かった晴香は八雲の背中でご機嫌で、道中やたらと絡んできた。後ろからぎゅっと首に抱きついてきたり、髪や頬に頬擦りしてきたり耳朶にキスしてきたり。挙げ句の果てに耳もとで「ねぇねぇ、大好き」と幸せそうに囁く始末。 内心愛おしいと思っている恋人にそんな風にされれば、若く健康な成人男性である八雲は色んな意味でバロメーターが上がってしまう。それを素知らぬ顔でやり過ごし、冷静な仮面の下で悶々としながら送り届けてみれば蹴りを入れられる。 こっちの気も知らないで、とつい恨み言の一つや二つ、ぼやきたくなるというものだ。 しかめ面を作って睨みつけてみても、のしかかられている晴香はふにゃっとした顔で笑うばかりで全く効き目がない。 「はぁ……もういい、さっさと寝ろ」 八雲は諦めて身体を起こすと、晴香を早々に寝かしつけようと彼女の上着を脱がし始めた。 「部屋着はどこだ、ほら着替えろ」 「んー、暑いから着たくない」 晴香はのろのろと起き上がり、男の手にされるがまま万歳をして厚めのカットソーを頭から抜く。 八雲は衣服の下から現れたボディラインから視線をずらし、子供を着替えさせるようにボトムスを引き抜いてやる。パジャマを探す為にベッドから降りようとした時、後ろから小さな声で名前を呼ばれた。 振り向いた刹那、細い腕が首に巻きついてきてぐっと引かれ、バランスを崩した八雲は再び晴香の上に逆戻りする。慌ててマットレスに手をついて柔らかな肢体を押し潰す事は免れたが、驚きと潰さなかった事に対する安堵の反動でつい咎めるような声が出た。 「おい。いきなり危ないだろ」 「んー」 「んーじゃなくて、離せよ」 「やだ」 こいつ、と眉根を寄せ寄せると八雲の下敷きになっている晴香がまた八雲の名前を呼ぶ。顔の向きを僅かに変えて視線を向けると、こちらを見上げている綺麗な瞳とかち合った。 「なんだ…?」 「……送ってくれて、ありがと」 「え?あ、いや……別に良い」 それだけか、と拍子抜けはしたけれど、彼女はその後八雲を解放するわけでもなく黙り込む。沈黙から晴香の躊躇いを感じとり、八雲は彼女を観察した。 先程までのへらへらした顔ではなく、真面目で、切なげで、それでいてどこかとろりと緩んだ顔。八雲の中で、帰宅道中から出来るだけ気を逸らしていた晴香の『女性』が急激に意識された。 「………」 心音の轟はどちらのものなのだろうか。 折り重なったまま互いに無言で、僅かな時間をじっと見つめ合う。 丸い小顔に透き通る肌。 垂れ目がちの大きな瞳はしっとりと濡れて潤み、ふっくらとした唇は物言いたげに薄く開き、なめらかな紅い舌がちらりと覗く。 歳よりも幼い雰囲気の晴香の顔が匂い立つような色香に包まれて、八雲の胸をぎゅっと掴んだ。 「八雲くん……」 いつもより少し掠れた、ソプラノの声。部屋の空気が一気に濃密さを増して色付く。 「どうした……?」 八雲の問いかけに晴香は答えなかった。 かわりに、ジーンズに包まれた八雲の脚に、晴香のしなやかな脚が絡みつく。首に回っている腕も片方から両方に変わり、柔らかな胸の膨らみが胸板で押し潰される程に引き寄せられる。 嗅ぎ慣れた甘い匂いが鼻腔をくすぐった時、桜色の唇がゆっくりと開いて八雲の耳元で囁いた。 「ねぇ……しよ?」 官能的な意味合いをもつ誘い言葉に、どくんと胸の鼓動が跳ねる。性的な事を出来るだけ考えないようにしてきた帰り道、その反動とばかりに強く意識し始めた時だっただけに、晴香の言葉は八雲の脳裏に鮮やかに響いた。 触れたい。くちづけたい。舌を這わせ、深く繋がりたい。誘われるまま、本能のまま。けれど―――。 「……馬鹿言うな」 自分の欲求を押し込めて、八雲は首を横に振る。いつも通りの口の悪さに晴香の眉が顰められた。 「どうしてばかなの?」 「酔っ払った女性につけ込む真似なんて、出来るわけないだろ」 友達から恋人になって、どれぐらい経っただろうか。その間に無垢だった2人の体は互いの『色』に染まり、深く固く結ばれていた。それでも数々の悲劇を見てきた八雲にとって欲望はある意味で忌まわしいものであり、そういうことに対して若干潔癖なところがあった。 酔っ払って判断力の低下しているのをいい事に行為に及ぶ―――例え恋人だと言えども、いや大切な女性だからこそそんな事はしたくない。 晴香という終生の恋人を得た今、八雲は恐れていることがあった。 「君は酔ってる。だから今日は……しない」 「確かに酔ってるけど、酔っ払ってるわけじゃないよ?」 誘惑に負けるのを危惧して離れようとしたが、晴香は八雲の思考を呼んだかのように腕に力を入れて阻止する。八雲は困ったように溜息を吐いた。 「同じようなモンだろ」 「違うよ、全然違う。それに帰り道動かなかったせいか結構お酒抜けてきたし」 本当だろうか?声音だけ聞いていると、確かにいつもの彼女ではある。 けれども、酔ってないと言う割りには普段の彼女らしからぬ行動をしている。……こんな風に半裸の状態でしがみ付いてくるなんて、らしくない。 これはこれで結構嬉しいのだけれど、断る事を考えると少し困る。考えまいとしていてもやはり、目前に迫る女体を嫌が上にも意識させられてしまうのだ。 キャミソールから覗く乳白色の肌はきめ細かく、マシュマロのような感触で八雲に絡みつく。 いつまでも触っていたくなる柔らかさに、甘い囁き。 首筋にそっと擦り寄られて、拒絶する言葉とは裏腹に身体の芯が熱く火照り始めているのが自分でもわかった。正直言って、かなりマズい。 「違くないだろ……離せって」 「やだ。私、この為に泊まるの断ったのに」 「なんだって?」 晴香の瞳を見ようと顔を向けた瞬間、下から柔らかなものに唇を塞がれる。優しく包み込むようなキスをされ、くらっと思考能力が揺れて、ついいつもの調子で応えてしまう。 「ん、もっと……」 離れた瞬間可愛らしく唇をねだられて、急激に喉が乾くような飢餓感に襲われた。 飢えを少し癒すつもりで深く口づけて、そして直ぐにそれが間違いだった事に気がつく。これでは余計、欲しくなる。 誘いかける甘い唇から離れるのは至難の技だったが、暖かな口内から舌を引き抜くと、追いかけてくる唇を避けてなんとかやり過ごした。 「さあ、ほら。もう遊びは終わりだ」 「いや……」 昂りに乱れた呼吸を落ち着けている間中、晴香が下から子猫のように身体を擦り付けて甘えてくる。 「君は酔ってる。酔ってるからそんな事を言い出すんだ」 意志の力を総動員して晴香から身体を引き離す。ベッドの上にいたら危険だとばかりに素早く降りようとすると、晴香が腕を掴んで引き止めた。 「離せって……」 「嫌なの?」 「そうじゃない」 嫌じゃないから、困っている。襲ってしまいそうで、恐れてる。 離れようとぐっと腕に力を入れた瞬間、細く哀しげな声が頼りなく部屋に響いた。 「だったら、私を拒絶しないで。抱き締めて……お願い」 その言葉で、彼女を振り払おうとした八雲の身体の動きがぴたりと止まる。 見れば晴香は、顔の赤さはそのままだが不安そうに眉を曇らせている。唇を噛み、心なしか涙の膜が薄っすらと張っているようだ。 しまった、と八雲は胸の中で自分に舌打ちをした。 晴香を拒むつもりではなかったのだ。拒むなんてとんでもない。彼女を傷つける事なんて、したくない。 拒んでいたのは寧ろ……甘い誘惑に流されそうになる自分自身だったのに。酔ってる女性に見境無く襲いかかりたくなってる自分なのに。 自身から逃げる行動が、結果的に晴香を傷つけてしまったようだ。 大切な人に拒絶される痛みは良く知っている。そして今の八雲は、晴香に―――大切な人に受け入れてもらえない事を恐れている。 八雲は晴香の肩を優しく叩くと、自分の腕を引き抜いてそのまま小さな身体を包み込んだ。 「悪かった。別に君を拒んでるわけじゃないんだ。このままだと間違いなく流されてしまうから」 「流されれば良いじゃない。私たち、恋人なのに……今まで何も無かったわけじゃないのに、どうして」 何度もしてるのに、と言外に含んだ口調で言われ、つい苦笑いを漏らす。 「怖いんだよ。酔っ払った君をこのまま襲って、そして翌朝何も覚えてない君に幻滅されるのが」 「……幻滅なんてしないよ」 黒瞳がちの優しい目で見上げられて、八雲は頬を緩めて微笑んだ。 「そう言った事も覚えてないかもしれないじゃないか。僕を誘うのも酔ってるからだろうし」 優しく髪を撫でてやると、晴香はゆるゆると首を横に振った。 「違うよ。だってお酒飲む前から、八雲くんに泊まってもらうつもりだったもの」 「それは……遅くなるのがわかってたからだろ?」 「違うってば。八雲くんと、その、したからったからだよ。だから……酔う前も酔った後も、敦子さんの泊まりの誘いを断ったんだよ。今日は始めから……そのつもりだったの」 後半ごにょごにょと口籠るので見てみれば、流石に気まずそうに目を逸らされてしまう。 「始めから?」 「う、うん」 「始めからって、もしかして後藤さんちに行く前から?」 「……うん」 そこまで素直に話すつもりは無かったのだろう。頬が明らかにさっきよりも赤い。 「へえ。君が、ね……」 八雲はつい、驚きの声を上げてしまった。彼女は八雲の視線を避けるように顔を背け、そっと胸元に寄り添ってくる。その柔らかな髪を撫でると、彼女は唇を尖らせて拗ねたように呟いた。 「私にだって、一応性欲はあるんだよ……」 性欲という赤裸々な単語に一瞬どきりとする。と同時に、不思議な感慨に似たものが胸をよぎる。 普段恥ずかしがって逃げる晴香が、八雲に抱かれたいと精一杯誘っている。欲望があるのだと、不貞腐れながらだけれどきちんと訴えている。言葉に出して自ら身体を寄せ、頬を染め―――。 ああ、駄目だ。触りたい。 首に回った小さな手が、再び八雲を引き寄せる。今度はバランスを崩してではなく、積極的に自分から身体を倒していく。抱き心地の良い肢体を胸に抱えたまま、八雲は再びベッドに倒れこんだ。 |