八雲はその日、後藤と石井の刑事コンビと、自分の隠れ家である映画研究同好会の部室で、捜査資料を眺めながら事件の話をしていた。 「今わかってるのはこんなところだな」 「八雲氏、現場にいたクルーが見たっていう幽霊は、やっぱりあの……2年前の被害者、なんでしょうか」 八雲は持っていた過去の資料をぱたりと閉じ、石井に目を向けた。 「それはまだ何とも。兎に角、その人に話を聞いてみないと。日が暮れる前に行きましょうか」 各々がガタガタと音を立ててパイプ椅子から腰を上げ、八雲が冷蔵庫の中の鍵をジーンズのポケットに突っ込んだ時、軽やかな音を立てて部屋の扉が開いた。 「八雲君、いる?」 優しいソプラノを響かせてひょっこりと顔を出したのは、毎度お馴染みの侵入者。 「人の部屋に入る時はノックぐらいしろ」 軽く窘(たしな)めてはみるものの言われた本人はどこ吹く風で、「ごめんごめん」と大して悪いと思ってなさそうな口調で謝る。彼女は背中でドアを大きく開くと、石井や後藤と朗らかに挨拶をしながら部屋に入って来た。 何やら、大きな荷物を抱えている。今度は何を持ってきたんだ……と、八雲は内心で溜息を吐いた。 食べ物、マグカップ、カトラリー、文具、縫いぐるみetc。彼女が入り浸るようになってから、いつの間にかツール達が増えるようになった。 文句を言っても大抵の場合「私も映画研究同好会の一員なんですけど」と部室を使う権利を主張してくる。 それどころか「あれ?じゃあ同好会のメンバーは部室使っちゃいけないのかな?他の人も使ってないのかな?事務の人に聞いてみよっか」と朗らかに脅してくる。 学生課を騙くらかして住み着いている身としては、そう出られると強くは言えなかった。 ―――まあ、別に害があるわけでは無いしな。 それに、文句を言う程迷惑に思っているわけでもない。他人がこんなに自分の生活に食い込んで来ているというのに、相手が能天気な晴香だからだろうか。自分でも意外な程すんなりと受け入れていた。 僕は、自分が思っている以上に、こいつに対して垣根が低いのかもしれない。 八雲は本人に気取られぬよう、そっと晴香の方を盗み見た。 しっかりした大人だと思えば呆れるくらい幼い彼女。貶してばかりで素直に認めた事は無いが、間違いなく容姿が整っている部類に入るだろう。少なくとも、八雲はそう思っている。 子供のそれのように柔い茶色の髪、小さな顔。肌理細かい白い肌に黒目がちの大きな瞳、桃のような薄紅色の頬。 細い首筋は成熟した大人になる前の匂い立つような清らかさで、八雲を惹きつける。 声も大きいし騒がしいけれど、こうして狭い部屋に全員で立っていると、とても小さく感じる。事実彼女は背の高いほうでは無いのだが、撫で肩気味のせいもあり、厳つい後藤と並ぶと余計に小さく見える。 晴香は男3人全員が立ち上がっている事に気づくと、少し首を傾げた後に八雲の方を向いた。 「あれ?もしかして、今から出かけるの?」 「ああ」 「そっかぁ……」 傍に寄ってくる晴香に言葉少なく返事をして、八雲は長机の上にある携帯電話を手に取る。 後ろポケットにねじ込むと、シャツの裾がちょちょいと引っ張られた。 「ね、いつ帰ってくる?」 「わからない。そこの熊に聞いてくれ」 この刑事に付き合わされると、帰りが何時になるかなんて全く分からない。 顎先で『熊』を示すと、晴香はくるりと後藤の方を向いて、その大きな瞳でじっと見上げた。 「後藤さん、八雲君いつ返してくれます?」 「おい。人を物みたいに言うな」 「気のせい気のせい、そんなつもりないもん。 ね、後藤さん。何時頃終わります?」 口を挟んだ八雲ににこっと可愛い笑顔を向けて、直ぐに後藤に向き直る。 「え?いや、うーん。そうだな、日付が変わる前には帰せると思うぜ?」 「あ……。そっかぁ、結構遅いんですね」 後藤の返答を聞いて、晴香は眉尻と肩を下げる。残念そうな口調で『じゃあうちでご飯は無理かなぁ』と小さく呟いたのを拾って、八雲の耳がぴくっと動いた。 「……ちょっと待った」 別に隣のしょぼくれた顔が気になったわけじゃない。別に部屋に誘うつもりだったのを聞いて惜しくなったわけじゃない。晴香の作る温かい料理が好きなわけじゃない。 そういう訳じゃないが、気がつけばつい、制止の声を掛けていた。 「なんだよ」 「なんだよじゃないです。後藤さん、そんな時間まで善良な一般市民を連れ回す気ですか」 「だってお前、今からじゃあよ……」 「やれやれ。日本の警察も駄目になったもんだ」 「はあ?」 「事件を解く手伝いは市民の義務として協力しますけどね、逮捕にまで付き合う気はありません。それは警察の仕事です。 学生は勉学に勤(いそ)しむのが本分。僕は明日朝一で講義があるので、夜9時迄には帰らせて下さい」 そう宣言すると、刑事コンビは揃ってぽかんと口を開けて八雲を見る。 「何言ってんだよお前、さっきまで付き合う気満々だったじゃねぇか」 「そんな事誰が言いました?嫌なら手伝いませんよ」 後藤は怒鳴りつけそうな形相で八雲を見て、それからその隣で期待に満ちた眼差しをしている晴香を見て、頭を抱えて思い切り溜息を吐いた。 「お前ら……ぁああもう、わかったよ!9時前には晴香ちゃんちに着くようにしてやっから!」 「だそうだ。待てるか?」 八雲は後藤の返答を受け流すように晴香の方へと身体を向ける。 彼女は目をきらきらと輝かせ、八雲に向かって大きく頷いた。 「うん!待ってる!」 「よし。じゃあ、話がまとまった所で出かけましょうか」 そうと決まれば行動は早い方が良い。部屋を横切る為に晴香の傍に歩み寄り、八雲は1度立ち止まって白い顔を見下ろした。 「鍵を掛けるから、君ももう出ろ」 「あ、うん。でも……ちょっと良い?」 退出を促すと晴香は荷物をちらっと見て、八雲の袖を引っ張る。 なんだろうと思いつつ、ドアの前に立っている刑事達に「先に……」と頷くと、後藤は「車で待ってるぜ」と片手を上げて隠れ家から出て行く。ぱたりと扉が閉まるのを見届けてから、八雲は晴香の方を向いた。 「どうした?」 「あのね、これなんだけど」 「……なんだ、それ」 胸元につきだされたもの……晴香が持ち込んできた、やたら大きな荷物を指差して尋ねる。彼女が間抜けな声を出して部屋に入って来た時から、その大きさが気になっていたのだ。 白いビニールに覆われたその荷物は嵩張る割には軽そうで、彼女の身体の優に3分の1を隠していた。 「んーーと……膝掛けだよ」 「膝掛け?」 晴香は長机の上に荷物を下ろし、袋から彼女の言う『膝掛け』を取り出す。けれどそれは、一般的にそう呼ばれているものよりも遥かに大きかった。 「デカすぎだろ……」 「や、だって。これからどんどん寒くなるし、この部屋あんまり日当たり良くないし、夕方とか足腰冷えちゃうから」 女の子は冷えやすいんだよ、と言われれば男の八雲にはわからない。一応知識として女性にとって冷えは色々な意味で良くないというのは知っていたので、八雲は「まあ、いい」と呟いて首の後ろを掻いた。 「使わない時はちゃんとロッカーにしまっておけよ」 遠回しに許可を出してやると、あからさまにほっとした顔で両手を合わせる。 「うんうん、片づける。私がいない時は使っても良いからね」 「人のものは……」 「これは私個人のものじゃなくて同好会の備品だと思って。備品は皆で使うものでしょ?部室が寒いんだから仕方ない事だと思うし」 「わかったわかった。でもまあ、誰かさんは毎日のように入り浸ってるから、僕が使う暇は無いだろうな」 笑って茶色の頭に手を置くと、その下から優しい瞳がじっと八雲を見つめた。 「夜、とか」 「え?」 「夜とか、私はいないし寒いし、使う絶好のチャンスじゃない」 「絶好の……って。別にそこまでして使いたいわけじゃ、」 「どんどん寒くなるんだし。プレハブなんて、外気温と殆ど変わらないんだし。今年の冬は寒くなるってテレビで言ってたし。凍死だって、ないわけじゃないんだよ?」 一生懸命言葉を綴る晴香を見て、何故こんな大きな荷物を抱えてきたのか合点がいった。 要するに冷えが云々というより、人が暮らすようには出来ていないプレハブで寝泊りする八雲が風邪ひかないように(もしくは凍死しないように)、毛布を持ってきたわけだ。 何をそんな面倒な事を、素直に言えば良いのに……と考えて、去年もやたら煩く言われ、それを冷たくあしらって喧嘩になったのを思い出した。 「成る程。遠回しのお節介、どうも」 「もう!またそうやって……」 「僕にこれを使わせる為に持ってきたのなら、自分の家に持って帰れ」 袋に入れ直して渡すと、晴香は見るからにしょげかえり、瞳を潤ませた。 そういうつもりで言ったのではない八雲は、それを見て少し焦る。 「ここに置いとくのは嵩張るんだよ。部屋も小さいし、ロッカーもそんなに収納力のあるものじゃない。膝掛けが本当に必要なら、もっと小さい、椅子の背に掛けておけるようなサイズのものを持ってこい。僕は起きてる時は膝掛けなんて使わないけど、こっちは君の家で使う」 一気にまくし立てると、晴香はきょとんと目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。 「この毛布を?」 「ああ」 「うちで?」 「そう」 「どうして?」 くりっと丸い目で聞かれて、八雲はふっと溜息を吐いた。 「去年散々言ってたろう。寒い日は遠慮せずうちに来いって」 「言った。頼んだ。でも八雲君は一回も来なかった。心配してるのに、私のこと馬鹿にするばっかりで……」 だんだん言葉尻に恨み節が入る。八雲はまずい、と慌てて彼女のに言葉を遮った。 「悪かったと思ってるよ。だから、今年はお言葉に甘えさせて貰う」 「え?」 「まあ、君が『今年は心配なんてしない、来られるのは嫌だ』っていうなら諦める。無理強いはしない。それはここに置いといてくれ、部室でありがたく使わせて貰う」 晴香は八雲の赤い瞳をじっと見つめ、少し拗ねたような口調で呟いた。 「……来たら、洗面台の電球変えてくれる?」 「そのくらいはお安い御用だ。もし世話になるなら、ある程度の雑事は手伝うよ。なんなら添い寝してやっても良い」 「ええっ!」 「それは冗談だ。まあ、どうするかは後で聞かせてくれ」 真っ赤な顔で床を見つめる晴香の頭をぽんと叩き、ジーンズのポケットから部屋の鍵を取り出す。 「そろそろ行かないとまたあの熊が乗り込んできそうだし、僕はもう行く。部屋の鍵を掛けといてくれ」 晴香の手にそれを握らせると、その細い肩にそっと手を乗せ、薄紅色に染まる頬に掠めるように唇を寄せた。 「じゃあな」 嗅ぎ慣れた甘い匂いを吸い込んでから、彼女から離れてドアに向かう。 扉が閉まる前にちらりと見た小さな顔は、相変わらず真っ赤で、そして嬉しそうだけれど可笑しな笑顔を浮かべていた。 「おい、あれ晴香ちゃんじゃねぇか?」 八雲を乗せて裏門から走り出した車は、ぐるりと回って大学の脇を通りかかる。 その歩道には見慣れた姿が、ふわふわと歩いていた。 「なんだ?さっきより更にご機嫌だな……。っていうか、またあのデカい荷物持ってるよ。何しに持ってきたんだかなぁ?」 晴香から目を離し、バックミラー越しに後部座席を見た後藤は、不思議そうに声をかけた。 「八雲、お前何笑ってんだよ」 「いえ……べつに」 |