まあまあ短めのお話Vol.2

□Melancholy of early summer
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「好きです」








 爽やかな初夏の風に髪を煽られた時だった。
 明るい陽射しに心地良く目を細め、柔らかな空気がふんわりと衣服を揺らしたその瞬間、その言葉だけがくっきりと耳に入ってきた。
 はっとして顔を向けたその先には、見慣れた背中。トレードマークになりつつある洗いざらしのシャツにジーンズ、本人は「こういう髪型なんだ」と嘯(うそぶ)くボサボサの寝癖頭。それから片手には『明政大学 学生図書館』のテプラが貼られている何冊かの本。
 彼は、晴香が歩いている構内のメインストリートから僅かに外れた、中庭の木陰に立っていた。


 そして、その前にはもう1人。


 晴香は胸が速くなるのを感じながら、じっと目を凝らしてその女性を見つめる。

 あれは確か、文学部の女の子だ。本が余程好きなのか、よく大学内の図書館で見かける。八雲に会釈をしていた事もあって、2人が顔見知りなのだろうというのも知っている。


 じゃあ、今のは彼女が?


 鈴が鳴るような綺麗な声で、真摯な想いを伝える言葉。何も知らなければ、純粋に応援したくなっただろう。
 何も―――そう、相手が誰かを知らなければ。
 でも、艶やかな髪を長く伸ばした彼女の好きな相手は、どうやら自分の想い人らしい。
 晴香は急に軽やかな空気が翳り、自分の胸もずっしりと重くなった気がした。



「あの……わたし、ずっと前から…あなたの事、」


 切れ切れに聞こえてくるのは、真っ直ぐで純粋な気持ち。一度でも誰かを好きになった事のある人間なら、痛いほどよく分かる心情だ。
 晴香は手に持っていた鞄の持ち手を両手でぎゅっと掴んだ。


 まさかそんな、と信じられない気持ちと、ああやっぱりという気持ちが交差する。


 無頓着な身なりに隠れてしまっているが、八雲は元々とても整った外見をしている。
 顔は勿論の事、長身痩躯に長い手脚。少し服装や髪型をととのえれば、かなり目を引く存在になるだろう。本人が自身の容姿に興味が無いから大衆に埋没しているけれど、それでも端正な事には変わりない。
 そうでなくても、最近の彼は出会った頃に比べて大分変わった。
 身に纏う冷たく暗い、他人を拒絶する空気は和らぎ、雰囲気が柔らかくなった。見染める女性が出てくるのも頷ける。
 その事に気づいてはいたけれど、今の今まで見ないふりをしていた。
 後藤や敦子が常日頃からカップル扱いするせいか、何と無く自分達が周りにそう認識されていて、誰かがそこに割り込んでくるという可能性を考えなかった。
 いや、割り込むなんて考える事自体がおこがましいのだ。
 カップル扱いはあくまで彼らのからかいであって、事実は違う。どんなに近しく想いながらも何も起こらず、微妙な間柄とはいえ結局のところ八雲と晴香は友人に過ぎなかった。


 ―――そう。八雲は私のものじゃない。

 だから、彼が誰かを選んだとしても、晴香に文句を言う筋合いはない。友人という立ち位置にいる以上、表立って嫉妬をすることも出来ない。


 仲の良い、『ただの』異性の友人。


 本来ならば「告白されたの?へえ、素敵!相手はどんな人?」と喜んであげるべき関係。
 迷う背中を押してあげ、恋人が出来たら『良かったね』と笑って祝うのが正しいのだろう。


 でも、喜べない。笑顔になんてなれない。


 心の奥底で、そんなのは嫌だと駄々っ子のようにごねる自分がいる。その場所を奪(と)らないでと地団駄を踏む自分がいる。
 でも、どうしてそんなことを彼に言えるだろう?主張出来る権利どころか、臆病風に吹かれて告白すらしていないのに、そんなこと出来る訳が無い。
 これは現状維持を望んだ意気地なしの自分に対する、罰なのかもしれない。


 胸ばかりか体まで重くなり、少しでも気を抜くと老婆のように猫背になって深く項垂れてしまいそうだ。
 そのまま動けなくなるのを危惧して、晴香は息を大きく吸い込みながら背筋をしゃんと伸ばし、止めていた脚を無理に動かした。

 彼らの方を見ないよう努め、固まっていた時間の分を取り戻すべくメインストリートをてきぱきと歩いていく。

 出歯亀なんて、なんだか人の真剣な想いを茶化すみたいで良くないし、それに何より相手の男性が八雲なら、返事を聞くのが怖い。



 あれが……本当に八雲なら。



 彼以外のひとならば、勇気を出したあの女性の為に色良い返事を願うのみ。
 顔をしっかり確認したわけじゃないし、あの男性が本当に八雲だったのかはわからない。


 そうよ、第一後ろ姿だったじゃない。他人のそら似に違いない、うん。


 ずんずん歩いていた晴香は、そこまで来てぴたりと足を止める。見る見るうちに虚勢は萎み、明るい世界から目を逸らすように俯いた。



 ……嘘。あれは彼だった。


 私が八雲を、例え後ろ姿でも見間違える筈がない。頭を掻くあの仕草を間違えるわけがない。
 あれは確かに彼だった。わかる。



 ……だって、好きなんだもの。



 深い深い溜息が口から出て、思わず両手で顔を覆う。初夏の風に吹かれて弾んでいた気分は、今はこれ以上なく深く沈み込んでいた。





























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