夢を見ていた。幸せな夢を。 どんな夢かと聞かれても全然覚えていないのだけど…、幸せな夢の名残りが心を満たしてくれていた。 何かが覚醒を促しても、身体が「もうちょっとだけ」と拒否して、暖かな眠りに浸かっていたかった。 昨夜は遅くまで起きてた…というか、外が明るくなり始めるまで八雲の腕の中に居たから、眠りは深い。 久々に肌を重ねて、大きくて温かな体躯にしがみついて、何がなんだかわからなくなっているうちに時間が過ぎていった。 身体は流石に疲れたけれど、幸せだった、とても。 ●●● 永遠 〜Side HARUKA〜 ●●● 社会人になってもう数年が過ぎた。 卒業前から恋人関係になった私達は、時折喧嘩はするけれどそれなりに上手くいっていた。 でも、ここのところ八雲の仕事が忙しくて、ゆっくり会えない状態が続いていた。 少しでもいいから会いたいと彼に伝えると、意外な事に多忙な中でも時間を割いて会ってくれた。 部室に行くたびに「迷惑だ」とか「何しに来た」と可愛げのない事ばかり言っていた昔の彼からは信じられないだろうけど、『恋人』というスタンスになった私には、それなりの態度をとってくれるようになった。 お互いの職場がわりと近いから、私の仕事が終わった後食事に行くのは容易だった。彼は仕事の合間に抜け出してきて、一緒に食べて、そしてまた仕事に戻っていく…そんな状態だった。 始めはそれでも会えると喜んでいたのだけど、次第に自分の要望が彼の邪魔をしているように思えてきて、誘う回数がぐっと減ってしまった。 会いたい。 でも、負担になりたくない。 足を引っ張る存在になりたくなくて、「私も忙しくなっちゃったから、あまり会えなそう」と嘘を吐いた。 「お互い無理しないで、メールや電話も時間が空いたらしよう」と。 そうなると、驚く程連絡は減り、会うのもたまに、という形になってしまった。…やっぱり今まで無理をさせていたんだ、と…悲しくなった。 来ない電話、返ってこないメール。 仕方ない事だと、仕事だからと頭では分かっていても、その状態が続けば気は滅入っていくばかりだった。 私が彼の事が好きなのは確か。 でも、彼はどう思ってる?仕事や事件で、私の事なんて忘れちゃってる? 私、八雲君の恋人なんだからね? …待ってるんだからね? 自信がどんどん失くなっていくのに、想う時間は反比例に増えていく。 仕事をしていても、友達と遊んでいてもふと浮かぶのは、あの強くて綺麗な赤い瞳。 大きな、節くれ立った温かい手。 傍で寛いでる時に見られる、目を細めた満足そうな笑み。 それから…険しさの無くなる、愛しい寝顔。 もうどれだけ彼に抱き締められてないのだろう。食事はしても、触れ合う事をもう長い間していないと気づいて、淋しさが哀しさに変わった。 そうしてベッドの上で満たされない想いを抱え、ぽろりと涙を零した夜を数え切れないほど重ねていた、そんな時だった…彼から電話があったのは。 『今から行く』 相変わらず前振りも何にも無くて、八雲は用件をさっさと述べる。本当に恋人に掛けているのかと携帯をまじまじと見たくなるような無愛想な声、それでも伝えられた言葉は真っ直ぐ心に響いて、彼も少しは会いたいと思ってくれてたんだとちょっぴり安心した。 『今から行くから待ってろ。部屋に居るんだろ?』 「う、うん…居る。待ってる」 言いたい事は沢山あったのだけれど、突然の電話に応えるのが精一杯。用件だけで切れてしまった電話をテーブルに置き、私は何をすればいいかわからなくなって、周りを見回しながら慌てふためく。 動揺してる?ううん、違う。これは、喜び。 馬鹿みたいにドキドキして、きっと顔は赤くなってるし、八雲に応えた声は嬉しさで上ずってしまってすごく格好悪かった。 兎に角、とざっと頭の中で確認する。 食事は今日にかぎって余分に作ってあるから、ご飯だけ追加で炊けば多分大丈夫。お風呂のお湯もさっき入ったばかりだからまだ温かい。部屋は綺麗だし、素っぴん、部屋着なのは急だから流石に仕方ない。まさか今からお化粧するわけにもいかないし…いや、した方がいいのかな。 「ああもう、どうしよう」 両手を頬に当てて、ついつい嬉しさに緩んでしまう口元を横に引っ張る。 じっとしてられなくて座ったり立ったり、落ち着きなく動き回りながら、それでも八雲が来る為の準備でわたわたして、途中でテーブルの脚に右足の小指をしこたまぶつけてしまった。 「〜〜〜ったぁ…!」 痛い。夢じゃない。 もう一度携帯の着信履歴を見ると、そこには間違いなく『斉藤八雲』とある。 夢なんかじゃ、なかった。 もうすぐ、会える。 どうしよう、嬉しい。 嬉しくて嬉しくて、身体の奥底から何だか虹色のエネルギーがこみ上げてくる。 可笑しな悲鳴を出さないように両手で口を覆って、私は自分を落ち着かせる為にその場にしゃがみこんだ。 合鍵を渡してあるけれど、彼はいつもエントランスの入り口で訪(おとな)いを告げ、そしてドアの前でもまたチャイムを鳴らす。 勝手に入って来ても良いと何度言ってもそうはせず、『先に部屋に行ってて』という時意外、彼は合鍵を使わない。 それは他人行儀からではなく、誰かと親密な関係になった事がない彼には踏み込むべき位置が分からないから。 器用で、でも不器用な私の恋人は、相変わらず人との距離の測り方が下手だった。 高鳴る胸に掌をあてて、目を閉じてチャイムを待つ。 今日はゆっくり出来るのだろうか。またすぐ行かなくちゃならないのだろうか。 もし、居れるなら…今日はずっと居て欲しい。 会ったらまず明日休みなのか聞いて、何時くらいまで居てくれるのか聞いて、それからご飯にお風呂。 そういえば、八雲君の為にパジャマを買っておいたんだっけ。念の為に出しておこうかな…いや、期待してがっかりするのは嫌だから、泊まるかどうかわかるまでは出すのを止めておこう。 つらつらとそんな事を考えていると、小さく物音がしたような気がした。 でも私は顔を上げなかった。だって、まだエントランスの呼び鈴は鳴ってなかったから。 「…ただいま」 突然の、耳に馴染んだ低い声にはっとして顔を上げると、既に八雲が部屋に入ってこちらを見ていた。 驚きと、嬉しさで声が咄嗟には出て来なくて、無言のまま立ち上がる。八雲は上着を脱いで面倒臭そうに椅子の上に放り投げると、伸びた前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。 「…なんて顔してるんだよ」 顔?どんな顔?分からない。私は今どんな顔をしてる? 私に向かって伸ばされた腕に、慌てて彼の元に駆け寄ろうとして動揺に脚をもつれさせる。 あっと思った時にはもう身体が倒れかけていたが、危ういところで八雲に抱き留められた。 しっかりとした体躯は苦もなく私の身体を受け止めて、まっすぐに戻してくれる。そのまま見上げると、懐かしい赤い瞳が優しい色を宿して見下ろしていた。 泣きたくなるくらい、綺麗な瞳。 ありがとうって言うべきなんだろうけど、今1番言いたいのはそうじゃなくて。 「…おかえりなさい、八雲君」 ただいまって、言ってくれた。そんな事、今まで一度もなかったのに。 ねえ、少しは私のこと…帰る場所だと思ってくれてるって、自惚れてもいいのかな。 私のところに戻ってきたかったんだって思ってもいいのかな。 伸びてきた大きな手が頬をつるりと撫でて、離れる指先を目で追う間もなく、私は八雲に強く抱き締められた。 久しぶりの体温と、久しぶりの彼の匂いをもっと味わいたくて、回した腕に力を込める。 胸に頬をぴったりとくっつけて目を閉じると、温かい命の音が聞こえた。そのリズムに身体を委ねていると、優しく髪に口付けられて、それから久々に聞く低い声で問われた。 「…明日は休みか?」 「あ、うん」 そうだ、それを八雲に聞こうと思ったんだ。 いけない、もう忘れてた。 「私は休み。八雲君は?」 明日は土曜日だから、本来は二人とも休み。でも、八雲はここのところ休日出勤や事件で休みなんて殆ど無かった。 でも、今日こうしてうちに来て尋ねてくれるという事は、期待して、良いの…か、な? 内心首を傾げながら、腕はそのままに八雲を仰ぎ見ると、彼は薄く微笑んでくれた。 「僕も休みだ」 その答えについ笑顔になる。 「ほんと!?じゃあ、ゆっくり出来る?今日泊まれる?」 「泊まれるが、ゆっくり出来るかは分からない」 「え…」 まだ仕事があるのだろうか?まさか自宅で仕事をしようと持って帰ってきてるとか…? また、少ししか一緒に居られないの? しょんぼりと眉を下げた私の顔を見て、八雲は良いものを見たとばかりに笑い出した。首を横に振って、私の考えを否定する。 「ゆっくりするよりもまず、君を充電しないとな」 彼はそう言うや否や、身を屈めて私を抱き上げた。 いきなり宙に浮き心許なくなった身体に驚いて、小さく悲鳴を上げる。咄嗟に彼にしがみつくと、私は顔を真っ赤にして狼狽えた。 「でも、あの、あの、ご飯は?」 軽々と抱き上げられたまま、遠慮がちに聞いてみると、八雲はすこし照れ臭そうに笑った。 「こっちの方が深刻なんだ。…分かるだろ?」 分かる。すっごく分かる。 だって、同じだから。 私も充電が必要だから。 疲れが溜まっているだろう彼の身体を思えば食事を先にさせる方が良いのだが、八雲の言うとおり、こちらの方が深刻だ。 …触れたい。会えなかった分まで。 抱き合いたい。隙間を埋め尽くすように。 会えて、嬉しい。 ぐるぐると渦巻いてた不安もあなたに会えば、ほら。たちまち嘘のように消えていく。 ベッドの上に優しく降ろす八雲の首に腕を絡め、抑えきれない喜びに微笑むと、優しいキスが降りてきた。 ************ 夢を見ていた。幸せな夢を。 どんな夢かと聞かれても全然覚えていないのだけど…、幸せな夢の名残りが心を満たしてくれていた。 何かが覚醒を促しても、身体が「もうちょっとだけ」と拒否して、暖かな眠りに浸かっていたかった。 「う…ん…」 温かかった手が急に寒くなり、大きな掌が頭を撫でる。 この手の感触はよく知ってる。私に触れる温かい手の持ち主は、素っ気ないけど優しくて、そして私を幸せにも寂しくもさせる。 まめに連絡するタイプじゃない事なんて、大学時代からわかってた。相変わらず気まぐれだし、行動は猫そっくり。ご飯作って食べさせても懐くどころか褒めてさえくれないし、勝手だし、人の事馬鹿にするし皮肉ばっかり。 それでも、悩みがあるとすぐに気付いて、話を聞いてくれる。トラブルがあると助けてくれるし、不安になると抱きしめてくれる。 大きな手で撫でられると安心するし、自分の恋人にすら無愛想で、でも世界一優しいキスをくれる人。 大好きなんだよ。寂しかったんだよ。 ずっと傍にいたい、なんて言ったらきっと困らせてしまうから言わないけれど、本当はね、私、あなたと。 あなたと…。 『…わかってる』 優しいテノールが耳元で響いて、ふわふわと漂っていた意識がゆっくりと下降していく。 「わ、たし…」 八雲君と…。 『大丈夫、わかってるよ』 そこでぽかりと目が覚めて、朝の柔らかな光が飛び込んできた。 …眩しい。 睫毛の先に滲んだ景色が拡がって、自分が僅かながらも目を潤ませていた事を知る。 「…?」 「だから、約束をしよう」 何の、と言いかけて口を噤む。 声のした方を見れば、優しい瞳をした八雲と目が合った。 眦に残る涙を指先でぬぐわれ、労わる仕草に誘われて彼の胸元に手を伸ばす。 さっきのは夢?それとも現実? どっちでも構わなかった。ぬくもりを感じたい一心で腕を伸ばし八雲の首に絡めると、上体を起こして抱きついた。 温かくて、安心できる広い胸は硬くてあたりが悪いけれど、1番好きな場所。 何よりも守りたい、ずっと私を受け入れてて欲しい場所。 ずっと私の…私だけのものにしたい場所。 「約束するから」 改まった表情の彼に、おでこに優しくキスをされる。 夢と現実の境目がわからなくなりそうで、瞬きを繰り返していると、左の薬指にヒヤリとした違和感を感じた。 ―――『ずっと傍に、一緒にいたい』――― 息を飲んだ私の頬に、温かい唇が落とされる。 視線の先、白い指の上で朝の光を浴びて輝くのは――――… END. |