「八雲君、いるー?」 ご機嫌な足取りで茶色の髪をふわりと揺らし、彼に会うために扉を開く。いつもと変わらない明るい晴香の声が、部屋に響いた。 ここは、お馴染み「映画研究同好会」と銘打った八雲の隠れ家…ではなく、とある病棟の4階だ。 事件に巻き込まれて、怪我をした八雲がここに入院をしている。 事後処理にゴタゴタしてこの数日は中々来れなかった。昨日珍しく八雲から連絡があったと思ったら「暇だから部屋にある本を持って来てくれ」と頼まれ、この日甲斐甲斐しく荷物を抱えてやって来た、というわけだ。 どんな口実でも呼ばれた事が嬉しくて、晴香は嬉々としていた…のだが、一歩病室に脚を踏み入れた途端、ぴしっと音が出そうな程顔を強張らせた。 八雲は、いる。 入院をしているのだから、まあ当たり前だ。 でも、この人は、何? いや、その服装を見ればその人が看護師だという事はわかる。 でも、何故患者の…八雲のベッドに、艶かしく脚を組んで座っているの?それもそんな近くに。何故八雲の胸に手を当てて微笑んでるの? むかーーーーっと、お腹の中が熱くなる。 女の人も嫌だけど、それを許してる八雲はもっと嫌だ。苛々する。 腹は立つし、嫌で嫌で堪らないけれど…何も言えない。友達以上恋人未満、残念ながら八雲と晴香は未だに友人のままだ。文句をいう方がおかしい。 いやわかってるけど!私のものじゃないけど!でもやっぱり… ピピっ、と気の抜けた電子音が鳴り、はっと我に返る。今の音はどうやら体温計らしい。 八雲は入院着の中から取り出すと、近すぎる看護師に笑顔で渡した。 「じゃあ…さっきの話だけど、必要になったらすぐ私を呼んでね」 にっこりと思わせぶりに看護師が笑いかける。 「ええ。もし必要になったら…ね。まあ、彼女が来てくれたんで大丈夫だと思いますが」 顎でくい、とこちらを指されて晴香は驚いた。入室してから一度だってこちらを振り向きもしなかったから、てっきり気付いていないものだと思っていたのだ。 看護師は「あら」と態とらしく唇に手を当てると、残念そうな表情を八雲に向けた。 「じゃあ私は行くけど…本当に遠慮しなくていいから、いつでも呼んで」 彼女はそう言って立ち上がると晴香の方に歩いてきた。 お腹のむかむかを抑えて会釈すると、上から下までじろりと見られ、更に鼻まで鳴らされた。 ええ!?何!?なんか凄くムカつくんですけど!! 怒りつつもその態度に呆気に取られて後ろ姿を見送っていると、今度は聞き慣れた皮肉が飛んできた。 「いつまでそこにボケっと突っ立っているんだ。入るならさっさと入れ」 振り返ると八雲が大口開けて欠伸をしている。 何よもう!人の気も知らないで…。 晴香はつかつかとベッドに近付くと、手に持っていた本を八雲の上にバラバラと落とした。 「痛っ!」 「はい!頼まれてた本!」 ツンケンしながら肩から鞄を下ろし、脇に寄せられていたパイプ椅子を引き寄せてその上にどっかりと腰を下ろす。 そんな晴香を横目で見ながら、八雲は身体に当たってシーツの上に散乱した本をまとめ、ぶつぶつと文句を言った。 「もっと丁寧に渡せないのか君は」 「出来ません、乱暴者なもので」 「開き直るなよ」 「いーの!」 べえ、と舌を出し、腕を組んでそっぽを向く。 「何を怒っている」 「怒ってません」 「怒ってないって態度じゃないだろ?」 「お・こ・っ・て・ま・せ・ん!」 自分でも嫌な態度だとは思うけれど、一度曲がった臍は中々元には戻らない。すんなり戻せるくらいなら、意地っ張りだなんて言われない。 本当は、入院している八雲に優しい言葉をかけたかったのに…。 怒っている。嫉妬している。文句の言えない関係に苛々する。 気持ちを切り替えようとしても、どうしても先程のすれ違った看護師をスローモーションで思い出してしまう。 スラリと背が高く、胸もお尻も肉感的で、おまけに美人。頭も良さそうで、知的さと色気が混じり合っていた。 そして、自分とはまるで違う、正反対の女性には皮肉を言わない八雲に対し、腹立たしいやら切ないやらで胸の奥がどろどろする。 やっぱり、ああいうタイプがいいのかな?前に私の事好みじゃないって言ってたし。 何だっけ?「こいつに手を出さないのは好みの問題」とかなんとか。 …あ。何か悲しくなってきた。 「…君は一体何を一人で百面相してるんだ」 「え?あっ…うわ!」 視線を上げれば予想以上の近さで覗き込まれ、ぎょっとして反射的に身体を引いて…椅子から転げ落ちそうになるのを、両腕を掴まれてなんとかまぬがれた。 その状態で…おまけに至近距離のまま、問われる。 「どうしたんだ?」 「…何でもない」 「何でもなくは…」 「いいの!悪いけど、用が無いならもう帰る」 言ってて自分で自己嫌悪に陥る。我儘で、子供で、意地っ張りで、そんな自分がほとほと嫌になる。こういう時はさっさと退散するに限ると腰を上げかけると、あっさりと八雲に戻された。 「用なら、ある」 何かを頼もうとする人の声とは思えないほど、偉そうな物言いに呆れてその顔を見上げると、声とは裏腹に優しい瞳で見下ろされた。 「悪いが、背中を拭いて貰いたい」 意外な頼みにきょとんとなる。 「頭は、専用の洗面台で洗えるんだが…身体は患部に水が掛かるとかでシャワーを禁止されてるんだ。まあ、数日の話なんだけど。 他は何とかなるとして、流石に背中とかは自分じゃやり辛い。…手伝ってくれないか?」 成る程。頼み事はわかった。 でも、素直に聞けない。 「…さっきの看護師さんにして貰えば?」 「えっ?」 唇を尖らせて言うと、今度は八雲はがきょとんとした。 「あの人だったら、喜んで手を貸してくれると思うよ。八雲君もそっちの方が嬉しいでしょ?」 「なっ…。そんなわけないだろう」 「どーだか。さっきだって膝の上に座られて、まんざらでもなさそうだったじゃない」 「あれは検温をしていただけだ。それに、彼女は膝になんて座っていない」 珍しく、八雲が分が悪そうに頭を掻く。その言い訳じみた口調が晴香には意外だった。 てっきり「だからなんだ」「君には関係ない」とバッサリ切り捨てられると思ったのだ。 だから、とても意外で…ちょっぴり、嬉しい。 「膝の上には座っていなくても、その位近かったようですけど?八雲君も、いつもの皮肉ん坊は何処へやら、とーっても愛想良くて、私に対する態度とは大違い。 やっぱりああいうタイプに弱いんだね、男の人って」 つん、と冷たく言い放つといよいよ彼は困惑し始めた。 う、ちょ、ちょっと楽しいかも。 「いや、僕は…。別にああいうのに弱いわけではないし、愛想良くした覚えもない。ただまあ…近かった、というのに異論はないな」 「ふー…ん」 「一応こちらは面倒見て貰ってる身だし、そう邪険にも出来ないから適当にあしらってるだけだ。向こうからあれこれ言ってくるのを断るのだって結構面倒臭いんだぞ?」 「…。って事はやっぱり言い寄られてるんだ」 気分は急降下。 別に誰が誰に恋しようが迫ろうが勝手なのはわかってるけど…正直嫌だ。 あんな綺麗な人に誘われたら、きっと誰だってよろめくと思う。ましてや、八雲はフリーだ。そうしていけないわけもない。 もやもやした気持ちのまま黙り込んだ晴香に、八雲は問うた。 「気になる?」 彼らしくもない言葉に顔を上げる。またふざけているのかと思ったけれど、予想外にその顔は至極真面目で、その真摯な瞳に狼狽えてしまった。 |