雨の匂い。 八雲の匂い。 八雲の体温。 彼が・・・好き。 包み込まれるように長身のその身体に抱き締められて、涙が出そうなくらい胸が高鳴る。 固い喉元に額を擦り寄せると髪に柔らかいものが触れて、そしてまた名前を呼ばれた。 「…なに?」 広い背中に腕を回したまま顔だけを上げ、ほんのり染まった頬にぎこちない微笑みを浮かべる。 大丈夫。平気。大丈夫。不安が無いと言えば嘘になるけれど、初めてが心から好きな人で良かったと思う。だから――――怖くなんてない。 しっかり見つめてくる赤と黒の煌めきに委ねれば、きっとすべて上手くいく…と、抱きつく腕に力を込める。すると額に八雲の唇が降りてきたので、晴香は咄嗟に目を閉じた。 軽く触れては離れ、名残惜しさに目を開ければ、今度は目尻に。彼は晴香の頬や鼻梁にも優しくキスをした後、そっと細い首すじに手を滑らせた。 以前にも、こうして触れられた事がある。あれは、一心が刺され……いなくなっていた八雲が戻ってきた時だ。 肩から首すじを這い上がる指の感触に、身体が震え、力が抜けてしまったのを覚えている。 ああ、あの時も泣きながら訴えたんだっけ。 理屈も何もない、めちゃくちゃで子供のような要求に、彼は応えてくれた。あの時の手のひらも、温かかった。 今、抱き締める広い胸も薄いシャツの上から触れてくる掌も熱くて、その熱に飲み込まれてしまいそうだ。 …でも、まだ駄目。 晴香はしがみついていた大きな体から腕をするりと離すと、僅かに身を引いた。 「晴香」 呼びかけに、重たくなった睫毛をゆっくり持ち上げ、八雲の胸を両手で押す。 「…どうした?」 八雲は彼女の急な行動に驚く事なく、穏やかに尋ねた。 彼の声は優しく、まるで晴香が中断するのを分かっていたような態度だった。拒絶の多い人生だったゆえに、無意識的に身構えているのかもしれない。それに気付いた瞬間、晴香は慌てて八雲にしがみついた。 「違う、違うからね。嫌とかじゃないの。そういう意味じゃないから誤解しないでね」 「…そうか」 「勘違いしないでね、全然拒絶とかじゃないの。本当に本気で八雲くんが好き。ただ…」 「わかったから」 落ち着け、という八雲の言葉を無視して先を続けようとして、声が喉に詰まってしまう。彼は口を開けたまま止まった晴香を静かに促した。 「ただ?」 「ただ…ただ、その…全部あげたら、私のお願いもきいてくれるのかなって思って…」 「お願い?」 「うん。だ、だめかな?」 晴香は視線を逸らさずに、広い胸にぎゅっとしがみつく。八雲は彼女の表情を少し不思議そうに見下ろしていた。 「いいとか駄目とか以前に、君の願いはなんだ?先に言ってみろ、叶えられるものなら出来る限り叶えてやる」 そこで簡単にOKを出さないのが八雲らしい。現実的で、そして嘘をつきたくないからだというのがわかっているからこそ、この『お願い』が叶えられるのか答えを聞くのが不安だ。 この願いが可能なのか不可能なのかは全て彼の心次第だから。晴香は不安そうに瞳を揺らめかせ、渇いた唇を舌で湿らせた。 「…あのね、私に黙って、いきなり何処かに居なくなったり…消えたりしないで欲しいの」 八雲の目が訝るように細められる。暗がりから探る黒猫のようにじっと見つめ、必死な茶色い瞳を窺う。 「それはもう以前に『わかった』って言ったろ?」 八雲の返事に、晴香は大きく頭(かぶり)を振った。 「そうだけど、あれだけじゃ足りないの。もっと、ちゃんとした約束が欲しいの」 「……」 「…怖いの。いつも、いつか置いていかれちゃう気がして不安なの。 離れる事があっても、きちんと八雲くんが戻ってくるっていう、繋ぎとめているっていう自信が欲しい」 「…………」 僅かに開いた無言の間に、急速に不安が胸の裡を駆け巡る。 彼はじっと何かを考えていたが、やがて晴香の腕を引いて引き寄せ、腰に腕を回すと机の上から彼女を下ろした。 「八雲くん?」 気弱な晴香の呼びかけには応えず、八雲は天井を仰ぎ深く溜息を吐くと、やおら頷いた。 「…わかった」 静かだけれどきっぱりとした声音に、晴香の肩の力が抜けていく。そしてそれから続いた八雲の言葉に、晴香の目は大きく開いた。 「置いていくどころか…言うのは癪だけど、僕は多分、一度君を手に入れたら何があっても離してやれない」 「え?」 「君から手を伸ばさなければもしかしたら友達の関係で我慢出来たかもしれないけど…もう手遅れ、逃がすつもりはない。だからそっちこそ覚悟しておいてくれ」 「か、くご?」 「そう。だから君の願いは…叶うよ」 八雲はそう言って笑うと、晴香の手首を取り、その白い手の甲に自分の親指の付け根で円を描くように撫でた。そのまま細い肘下を伝い、肘、そして二の腕を通って肩口を包み込むと、不安を取り除くようにきゅっと掴んだ。 「君を置いていったりしない。ちゃんと傍にいるよ」 節くれ立った大きな手が晴香の柔らかな頬を包み込み、余計なものを何もつけていない裸の唇を親指でなぞって薄く開かせる。 「…約束する」 八雲は囁くようにそう言うと、自分の唇で晴香の唇を塞いだ。 触れた唇は柔らかく、熱い。でも、優しい。 まるで誓いのキスのようだ、と晴香は思った。 元々、挙式のキスは、誓いの言葉を互いの唇で封じるもの。 八雲がそんな考えでキスをしたわけじゃないかもしれないけれど、言葉以上の約束を…晴香が1番欲しかったものを誓ってくれたのは確かだ。 普段は愛想も何もない彼がやっと示してくれた、意思表示。 それが、嬉しくて堪らない。 恥ずかしいのに、嬉しくて堪らない。 唇が離れた後もなんだかふわふわと夢見心地で、唇に残る熱い感触を確かめるようにそっと指でそこに触れる。自分のもまるでそこだけが発熱しているように熱くて、晴香は大事そうにそっと指で抑えると、顔を上げて八雲に微笑みかけた。 「八雲くん、ありがとう」 「…どういたしまして」 気恥ずかしさを堪えてお礼を言えば、帰ってきたのは照れ臭そうに目を逸らす八雲の淡い笑顔。 滅多に見られない素直な彼の顔が可愛くて、晴香は八雲に抱きついた。 「ね、八雲くん…うちに来ない?」 「は?」 「だってここだとちゃんとした着替えもないし…そろそろお腹だって空いてきたでしょ?うちなら多少は食材あるし…お風呂だってあるよ。ね?」 理由を並べて誘う晴香に、八雲はなんとも複雑な表情を浮かべてみせた。 「一応言っておくけど…まあ、ここにこのまま2人でいてもそうなるけど…僕は君の部屋にいったら間違いなく手を出すぞ」 「わ、わかってるよ」 きっぱりと真正面から言われると流石にどんな顔をしていいのかわからず、俯いてしまう。それは羞恥からだったのだが、見ようによっては怖気づいているようにも見えた。 「僕の『お願い』は今日じゃなくてもいいんだ。君のペースで良い、無理をさせたいわけじゃない」 「違っ、無理じゃないよ!手を出して欲しいから呼ぶんだもの」 晴香は八雲が驚いている隙をつき、彼の首に腕を絡め、精一杯背伸びをして唇を掠め取った。 「…女の子にも、下心ってあるんだよ…?」 羞恥から小さくなってしまった声が、何だか悔しい。 八雲は晴香の薄紅色の頬を見て唇を吊り上げた。 「…震えてるくせに」 「しょ、しょうがないでしょ、慣れてないんだから! そんな事より、来るの来ないの、どっち!?」 ぷっくりと膨れて偉そうに答えを要求すると、八雲は「敵わないな」と笑って晴香を抱き締めた。 数分後、ひと気の無い暗くなったプレハブ棟から、二つの影が現れた。 身支度の済んだ彼らは折り畳んだ傘を持って、仲良く手を繋いで、話したり笑ったり、キスしたりしながら点在する常夜灯に照らされて大学の門から出て行った。 雨と一緒に大気の淀みは流されて、澄んだ空気に僅かに星が瞬いている。 雨はもう、降っていなかった。 END. やっとここまでこれましたー!次でラストです。多分、いやきっと短いです。 七節 |