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□6.傘なんかいらない
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※2Pあります














「教えて」



 今までに聞いたことのない、優しい声に晴香の頬がかぁっと紅潮する。

 問われた時に、流れでさらっと言ってしまえば良かったのだ。あそこで言葉に詰まってしまったのが良くなかった。

 改まれば改まる程無駄に意識してしまい、心拍数は上がり、口がからからになって上手く答えられない。

 晴香は困惑の面持ちで、じっと自分の爪先を見つめていた。





 ――――『どうして僕だと抵抗しないんだ?』―――





 どうして八雲だけには押し倒されても身体を撫でられても抵抗しないのか、なんて。そんなの好きという理由以外ないだろう、と晴香は思う。

 考えなくても簡単に分かりそうなものだが、女心に疎い八雲の事だから本当に察していないのかもしれない。だから、こうしてわざわざ聞いてくるのだろう。


 すう、と静かに息を吸い込んでみる。




 言ったら、境界線は濃く太くなるかもしれない。

 言ったら、境界線は消えるのかもしれない。


 迷いが無いわけじゃない、寧ろギリギリな状況だからこそ、迷いが深くなる。

 でも、このまま進まないのはもっと駄目だ。それに、ここまできたらもう…逃げられない気がする。



 晴香は机から下り、潤んだ瞳をちらりと八雲に投げかけ、しっかりと合ってしまった視線に慌てて顔を逸らす。



 真っ直ぐに見つめる丈高い青年は、迷いなく晴香の心の裡を明かそうとしていた。










 昔から肝心な時に素直になれなかった。八雲に対しては特にそうだった。

 好きなくせに皮肉にいちいちつっかかって口喧嘩、素直じゃないと自覚しながら雲のような彼をずっと見つめていた。

 指からすり抜けてしまわぬよう、しっかりつかまえておきたいと思ったくせに、『好きなの』と素直に可愛らしく言う事も出来ず、『欲しい』と妖艶に誘惑する事も出来ず。

 傍に居られなくなるのが怖くて、でも誰よりも近くに居たくて、「友達」という関係を壊せずにいた。ある意味、逃げていた。



 でももう、それじゃ駄目なんだ。

 それじゃ、嫌なんだ。



 告白なんてした事ないから、死ぬ程恥ずかしいし緊張するけれど、それを乗り越えたいと思うくらい彼が好き。


 振られても大丈夫、きっと友情は残る。そう自分を叱咤しながら、晴香は意思の力を総動員して漸く顔を上げた。





「理由、なんて。そんなの…好きだからだよ!わ、わかった?私、八雲くんが好きなの!」



 晴香は震える声で長かった想いをひと息に告げると、急激にパニックに陥り、悲鳴らしきものをあげて両手で顔を覆って俯いてしまった。









 ……それからどれ位経っただろうか。





「…なあ」


「……」


「おい」


「………」


 細い指の間から見える肌は真っ赤に染まり、八雲が声を掛けても肩に手を置いて揺すっても、晴香はいやいやするだけで一向に顔を上げない。


「いい加減顔をあげてくれ」


「やだ」


 短く拒絶すると降ってくるのは困ったような溜息。

 自分でも何をやってるんだろうとは思うけれど、どうしても顔を上げられなかった。

 わざとではない。身体が固まってしまったのだ。

 理由はわかってる。

 一世一代の告白なんてものをして心理的疲労が激しいのは勿論だが、一番の理由はやはり八雲の返事が恐いから。

 想いが深ければ深いほど、相手の言葉が怖いもの。高まる緊張感に耐えられず、晴香は顔を隠し続けた。



「…仕方ないな」


 もう一度の深い溜息の後、がっちりと顔をホールドし続ける晴香に痺れをきらした八雲の手が晴香の両手首を掴む。彼はそのまま痛くしないように注意しながら力を入れ、晴香の抵抗を強行突破で引きはがすと、半泣きで剥れている晴香の顔を見つめた。


「耳まで真っ赤だな」


「う、うるさい」


 からかえば更に頬を膨らませ、つんと横を向いてしまう。覗き込んでも、頑張ってこちらを見ないようにする姿が、臍を曲げた時の奈緒を彷彿とさせる。

 八雲は晴香の幼い仕草に頬をゆるめ、茶色の髪を何度も撫で梳いた。


「そんな泣きそうな顔するな」


「…誰のせいよ」


 膨れっ面のまま恨めしそうに言うと、僅かにだけれども八雲の口元に笑みが浮かぶ。彼は拘束していた細い手首を解放して、晴香の丸い頬に指を滑らせた。


「言わせて悪かった。でも、君の口から聞きたかったんだ」


「…そんなの、狡いよ」


 いつだって、そっちの心の内は全然明かしてくれないくせに。

 桜色の唇を尖らすと八雲はどうやら晴香の感情を読んだらしく、今度は苦笑いを洩らした。


「…わかってる。でも、折角人が頑張って堪えてたのにぶち破ってきたのは君だ」


「なに、それ。意味わかんない」


「わからなくていい」


 八雲は頬を撫でていた指をサイドから後頭部に移動させ、柔らかな茶色の髪を一房手にとった。それをゆるりと指に絡めて軽く引き、顔を上げるよう促す。

 晴香が戸惑いながらもそれに従い顎を上げると、八雲は晴香の額に己のそれをこつりとくっつけた。


「…ッ」


 キスのような体勢に、晴香は息を飲む。

 互いの瞳に、互いの姿が映し出される程の近い距離。見慣れている筈の赤い左眼が殊更鮮やかに見えるのは、八雲がいつもと違う表情をしているからかもしれない。

 真剣なくせに何処か色気を含んでいて、見つめられると妙に胸がざわめく。それでも晴香は瞳を逸らさずに、真っ直ぐ彼の視線を受け止めていた。結果はどうであれでも、彼の気持ちをきちんと知ろうと思ったのだ。いつまでも、先延ばしにするわけにはいかない。

 落ち着かない心臓をかかえたまま、晴香は八雲の次の言葉を待った。




「…………」




「…………」




「………………。    ?」




 だが、八雲は特に何も言わない。黙ったままで、晴香の小さく白い顔をじっと見下ろしているだけだ。

 まさか、あれで終わり、とか言うんじゃないでしょうね。


「八雲くんは…」


「ん?」


「八雲くんこそ、どうなの?」


「僕?」


 晴香が尋ねると、八雲は僅かに首を傾げた。なにを聞かれているのか本当にわからないようだ。


 この人、今まで何の話をしてたと思ってるんだろう?


「さっき、言ったでしょ?わ、私は八雲くんの事が好きだから…抵抗しなかったの。

 それについて何かないの?その、め、迷惑とか、」


「迷惑?まさか」


 八雲が意外そうに言う。だが、それだけだった。

 晴香は八雲にとって告白が不快では無いらしい事に安堵しながら―――但し、進まない会話に少し苛ついて―――更に問いかけた。


「じゃあ、何なの?どうして…その…私を押し倒したり、体を撫でたりしたの?どうして態々言わせたの?私の事…どう思っ」

「好きだから」


 意を決した問いかけに、さらりと言葉が返される。


「え?」


 余りに端的にあっさりと答えられたので、晴香は一瞬何を言われたかわからず目を瞬かす。彼はそんな彼女を見て、どこか満足そうな微笑みを浮かべた。


「君は相変わらず質問が多いけど、今回はこの一言で全部答えられるな」


「え、ええ?あっ…!」


 八雲は、意味を理解した途端に真っ赤になった晴香にそれだけ言うと、彼女の奇声を無視して華奢な身体を引き寄せ、再び強く抱き締めた。


「待っ…」


 拘束から抜け出そうとじたばたするが、今度は八雲の腕は緩まない。だからと言ってそれは晴香を損ねる強いものではなく、優しく包むような拘束だった。

 晴香は頭を振って後頭部の八雲の手をはずすと、なんとか腕の長さ分だけ距離をとり彼と視線を合わせた。


「ちょちょちょ、ちょーっと待った」


「今度はなんだ」


「す、好きって、ほんと?」


 上目遣いで聞くと今度は八雲が目を逸らす。


「…別に嘘はついてない」


「またそういう態度……ど、同情とかじゃないよね?」


「生憎そんな面倒な感情は持ち合わせていない、安心しろ」


 本当なんだ、と一瞬だけ力が抜けた晴香の肢体を、八雲はもう一度腕の中に収めようとした。晴香は我に返ると慌てて八雲から身を引く。


「それならそうと、なんでさっさと答えてくれないの!」


「悪い、抜けてた」


「抜けっ…てって、何よ、そんなにあっさり言えるなら、八雲くんが先に言ってくれればいいじゃないの!私がどれだけ…っ!」


 迷いを振り切り、恥ずかしい思いを堪えて告白し、八雲の気持ちを聞くまでのあの緊張を思い出して文句を言うと…


「馬鹿だな君は。君の気持ちを聞いたからあっさり口に出せるんじゃないか」


 返って来たのはまったく可愛気のない、でもごもっともな返事。


「狡い!」


 結局狼狽えてやきもきしたのは自分だけだ。

 悔しくて突き飛ばそうとしても簡単に躱され、「悪かった」と笑いながら腰を引き寄せられる。

 不貞腐れていてもどうにも胸が甘くて、そしてやっぱり嬉しくて。八雲に緩い抵抗を封じられて強引に抱き締められながらも暴れるのをやめないのは、晴香の精一杯の抗議と一種の照れ隠しだった。


 それでも…怒ったふりをしても、頬を膨らませても、どうしても顔が緩んでしまうのを止められない。



 好きだって。あの八雲が。私の事を。嘘みたい。でも、嘘じゃない。


 どうしよう、今動くのを止めたら逆におかしな悲鳴を上げてしまいそうだ。



 彼のいうところの「気持ち悪い顔」を見られないように顔を背け、ひとまず落ち着くまでは距離を取ろう、と決意した刹那。


「もういいだろ?機嫌直せよ、『晴香』」


「っっっ!!」


 テンションが変になっている上に突然名前まで呼ばれて、今度こそ晴香は堪えきれずに悲鳴を上げてしまった。



















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