「……君はさっきから何をしてるんだ?」 ぴたりと晴香の手が止まる。 濡れてしまった靴の中にティッシュを詰めておこうと、片手でジーンズを押さえながら悪戦苦闘する晴香を、八雲は不審そうに眺めている。 「え?いや、靴が濡れてるから…」 「そうじゃなくて。もう片方の手はどうした?」 「あ、そっち?」 晴香は屈み込んだ体勢から立ち上がると、ジーンズのウエストを左右に引っ張ってみせた。 「実は緩くって。手を離すと落っこちちゃうの」 「…ベルトは?」 「貸してくれるの?」 「ああ…いや、無いな」 八雲は僅かに考え、首を左右に振った。そして晴香の姿を上から下まで、一通り眺める。 「もう少し太いと思ったんだけど…意外に小さいんだな、君は」 「太…って、あのねえ」 「別に君が太ってると言ってるわけじゃない。女性のサイズはわかりにくいんだよ。男とは体型が違うからな」 言いにくそうに言われて、晴香は文句を飲み込む。女性はウエストがくびれて腰が張っているが、男性はそれがない。男性のウエストの何センチが標準なのか聞かれても、間違いなく答えられない。 異性の体型やサイズについて詳しくないのは晴香も同じだった。 「まあ…確かに私も男の人のはよくわからないけど」 そう言えば自分の父親のも、仲の良いサークルの男の子のも知らないな、と晴香は思う。 よく知っているつもりでも、彼等の身長がどのくらいかさえ思い出せない。知ろうと思った事もない。 ふとそんな事に気づき、目の前の身体を見る。この生活感のない部屋に通い詰めて、見慣れてしまったボサボサの寝癖頭、長身痩躯、大きな掌。 知ってるのは、八雲が自分より一回り以上大きいという事だけだ。もっと沢山知りたいと願ったのも、自分から触れたのも、彼だけ。 腕も、手のひらも、足も背中も何もかも大きくて。何かの拍子に懐にすっぽりと収まったりすると、妙に自分が女の子だと意識してしまう。 頬を赤らめ上目で伺うと、八雲が腕を組んで顎を撫でながらこちらを見ていた。 その深い瞳の色に、一瞬自分が考えていた事を見抜かれたのかと思ってどきりとする。だが、おろおろしながら見返しても、思案に沈んだままなんの反応を示さない八雲に、晴香は首を傾げた。 「あのー……なにか?」 「え?いや……それ、動きづらそうだと思って」 そう言って指差すのは彼自身が貸したジーンズ。 良かったそれか、と思わず安堵の吐息をつく。 「うん、借りてて言うのも何だけど、動きづらい」 にっこりと笑みを浮かべて素直に答えると、八雲もくすりと笑って近付いて来た。 「まあ、それだけひきずってればそうだろうな。君の格好、まるで子供が大人の服を着てるみたいだ」 言われて、また自分の姿を見下ろす。 全身ぶかぶか、おまけに足元は裸足。折り返してもまだ長いジーンズの裾から、綺麗なピンクのネイルが施された小さな爪先がちょこんと覗いている。 子供かぁ…と心の中だけで苦笑いして、晴香は八雲を見上げて微笑んでみせた。 「本当。八雲くんってやっぱり大きいんだね。袖は長いし、シャツ一枚でワンピース代わりに出来ちゃう」 子供みたいだと言われて残念だけれど、この大きな服だからこそ、借りて着ているだけで彼に包まれて、守られてる気分になる。 自分の乙女な思考をどこか照れ臭く感じながらも、晴香は片手でジーンズを押さえつつ、もう片方でシャツの裾を伸ばす。その仕草を見つめていた八雲は、僅かに視線を逸らしたままぽつりと呟いた。 「じゃあ、ジーンズ脱ぐか?」 「ほえっ?」 一瞬何を言われたのかわからなくて目を丸くする。 「冗談だよ」 八雲が固まっている晴香の頭をぽんぽん、と軽く叩く。 ジーンズを脱ぐって事はシャツ一枚?それって、いわゆる「彼シャツ」というものでは。 「…ああ、このシャツボタンが取れてるな」 晴香が八雲の言葉を理解して頬を染めた時にはもう、呆気ない程さらりと話を変えられてしまっていた。 勿論八雲は彼シャツなんて知らないだろうし、こちらを女性扱いしていないからこそ出た言葉なのだと思う。そうは理解していても、正直なもので鼓動が乱れた。 彼の言った事が本気であってもなくても衝撃を与えるには十分で、そして冗談なら切なくさせる。 動揺する晴香には構わず、八雲はその長身を少し屈めて彼女の着ているシャツの襟に手を触れ、指を滑らせて第一ボタンが無いのを確認すると、今度は細い首の周りで僅かに乱れている襟をゆっくりと直し始めた。 するり、と微かに布の動く音がする。 息を詰めて彼の行動を追っていた晴香の鼓動が、時折肌に触れる温かい指先に更に早くなった。 襟を直すなんてまた子供扱いされてるのに、固い指の感触に身体が震えそうになる。 それは、子供にはない感覚。 恥ずかしいけれど、擽(くすぐ)ったいけれど、心地良い。 意思の力でなんとか震えを押し込めて、晴香は唇を開いた。 「あの…えっと、」 「なんだ、どうした?」 か細い晴香のものとは違い、普段と何ら変わらぬ低い声。至近距離でも動じない、静かな2色の瞳。晴香は我知らず、きゅっと唇を噛んだ。 悔しいけれど、傘の下でも、そして今も、意識して鼓動を早めているのは自分だけ。……好きで、もっと強い絆が欲しいのも、私だけ。 子ども扱いされて切ないのも。 必死で走って追いかけてるのも。 ……いつか置いていかれてしまいそうで、いつも怖いのも。 晴香は視線を上げると、引き結んでいた唇を解いた。 「八雲くんが良いなら、ジーンズ脱ごうかな」 晴香の言葉に、首元の大きな手が動きを止める。 八雲は切れ長の目を細めて、こちらが気まずくなるほどじぃっと見つめてきた。 ……何も言わずに。 少しでも動揺させてやりたくて、少しでも意識して欲しくて言ったのだけれど、こういう反応は予想していない。 まるで固まってしまったかのような八雲の視線に、晴香は急激に自分の言った事が恥ずかしくなり、頬を真っ赤に染めた。 「いや…そのほら、やっぱり動きにくいし!シャツも長さあるし下着が見えるわけじゃないし!八雲くんが私の脚…というかそんか姿見たくないって言うなら、ずっとこうしてジーンズ押さえてるけど!」 沈黙が居た堪れなくて、結局誤魔化す為に、何かに追いかけられるようにしてまくし立てる、だが、それでも八雲は恐ろしい程無表情で、無言だった。 「………」 「ご、ごめん」 そのまま項垂れて惨めさと自己嫌悪に浸っていると、頭上から低い小さな声がぽつりと降ってきた。 「――――、どうする?」 「え?なに?」 外の豪雨に掻き消され、一度目の言葉が聞こえず顔を上げて聞き返す。けれど、次の八雲の言葉はしっかりと…まるでそれだけ輪郭が浮き上がったかのように、晴香の耳に届いた。 「…君だったらいい、寧ろ見たい…と言ったらどうする?」 「え?」 一瞬、聞き間違いかと思った。雨のせいできっと自分の都合の良いように聞こえてしまったのだろうと。 でも、こちらを見る2色の瞳は真剣で、そして僅かに緊張が見られたから、晴香には間違いではないとわかった。 ……けれど。 君だったら?見たい?どうするって…何? そんな返しをされると思ってもみなかった晴香は考えれば考える程混乱してきて、彼をその大きな瞳で見上げた。 「えっ…って、え?」 「……」 「もしかして…八雲くん、少しは私の事…女の子として見てくれてるの?」 恐る恐る尋ねると、八雲はふいと横を向く。 「君は男性には見えない」 「そ、そういうことじゃなくて…」 「冗談だ」 冗談?何が。どれが?どの言葉が冗談? 何故こんな中途半端で曖昧なまま、黙り込んでしまうのだろう? すぐそこに欲しい答えがあるのに霞に紛れてわからない、そんなもどかしい気分にさせられる。 眉を下げた困惑顔の晴香をちらりと見て、八雲は大きく溜息を吐くと、頭をがりがりと掻き回した。 「まあ…見てない、と言ったら嘘になるな」 「…っ」 曖昧なそんな一言で、晴香の胸に喜びがわく。 何か言いたい。でも、余計な事を言えばすぐ今の言葉を取り消されてしまいそうな気がして、怖くて何も言えず、晴香はその大きな瞳でじっと八雲を見上げた。 「…悪い」 彼はその視線を違う意味合いで受け取ったらしく、ふ、と自嘲気味な笑みを浮かべると晴香から一歩離れようとした。 「あっ…」 思わず、追うように身体が動く。 晴香が上げた声を聞いて何事かととどまった八雲の顔を、唯じっと見あげる。 八雲もまた、晴香の瞳から何かを読み取ろうと見返す。探るのではなく、気遣わし気な、心配そうな色で。 ……不器用で、優しくて、狡い人。 同じように想って欲しいなんて贅沢は言わない。でも、少しだけ。 少しだけでいいから。 晴香はとても小さく八雲に向かって微笑んでみせた。 そして、指からそろりと力を抜く。 支えを失ったジーンズは、重力に従ってすとんと落ちていった――――。 End. あ、あれ……。なんだかぐだぐだ&微妙な方向へ…(;´Д`)。すみません。 |