雨脚は次第に強く激しくなっていく。 ひとつの傘の下にいるというのに、既に互いの声すら聞き取りにくいくらいだ。 でも、構わない。 晴香は雨の音が好きだった。傘の上を跳ねる音、家の屋根を叩く音、誰もいない体育館に広がる細かな調べ、どれも不思議と心を落ち着かせる。 今は強く確かに刻む雨音。寄り添っているせいかそれは八雲の心臓の音な気がして、晴香は安心感にほんのりと口元を緩ませた。 大分暖かい季節になったけれど、曇ったり雨が降ったりすればそれなりに気温は下がる。着るものに困るが、太陽の恩恵をしっかり感じる事が出来る時期とも言える。 晴香はぼんやりとそんな事を考えながら歩き、そして次の瞬間空に走った雷光に身体を強張らせた。 遅れてくる鈍い音。それから重たく引きずるような余韻。 どちらにしても雷は遠く、そう怯える程のものでもない。だが、ざぁっと零れ落ちてきた大量の水滴に、晴香は再び身体を竦ませた。 「ぅゎっ…っ」 「これは…凄いな。急ぐぞ」 八雲も少しばかり目を見張って呟くが、傘に当たる雨の音が大きくて、晴香にはそれが聞き取れなかった。 「えっ、なに?」 「急ぐぞ、と言ったんだ」 聞き返すと耳元で言い直され、それから肩に回っていた手にぐっと力が入り引き寄せられる。半ば抱えられるようにして早足で歩いたが雨脚は予想以上に強く、プレハブ棟につく頃には脚も肩もすっかり濡れてしまっていた。 軒下で傘の先端を床にとんとんとつける事で、余分な水滴を落とす。周囲を確認してから傘を軽く振るい、残った水を綺麗に飛ばしていると、後ろから声が掛かった。 「何してる、早く来い。風邪ひくぞ」 「あ、うん…今行く」 畳むのは部室で少し乾かしてからにしようと、緩く束ねて八雲の後を追う。小走りで一番奥まで行くと、「早く入れ」と中に押し込まれてしまった。 傘立てなどないこの部屋の隅に折り畳み傘を立てかけておき、それから少しがたつく机の上にバッグを置いて中からハンカチを出す。それで拭こうと自分の身体を見下ろし、晴香は思わず声を上げた。 「うわぁ…」 庇われていたとはいえ、随分濡れてしまっている。片方の二の腕などは衣類が張り付き、肌が透けて見える程だった。 「おい」 「えっ…ぶっ!」 呼ばれて振り向いた瞬間に白いタオルが顔面目掛けて投げつけられる。見事命中したそれを剥ぎ取り、晴香は手にあるタオルと八雲の顔を交互に見つめた。 「これ…って、使って良いって事?」 「いらないなら返して貰って結構」 「いやいや要ります使いますっ、ありがと」 返せと言わんばかりに伸ばされた掌をぱちんと叩いて押しやり、有難くタオルで濡れたところを拭く。小さなハンカチよりはましだがそれでも服が渇く筈も無く、晴香は小さく身震いをした。 濡れた衣服は体温を奪う。 しんしんと冷えていく身体を感じ、ここは嫌味を言われようとも八雲に服を借りようと振り返ると、そこにはシャツとは違う質感の白。固いラインを描く男性の背中を見て、晴香は文字通り飛び上がった。 「ひゃぁあ!何してっ…!」 「何って、着替え」 「な、な、な、なんでっ…」 「濡れたからに決まってるだろ」 しれっと答える八雲にぱくぱくと口を動かすだけで何も言い返せないでいると、彼はロッカーからシャツを出し、さらりと羽織った。 白い布地が翻り、八雲の身体を隠す。 だが完全ではなく、開いた身頃からのぞく肌に動揺を忘れて晴香の目は吸い寄せられた。 う、わ……。 いつ運動しているのか、綺麗に筋肉の乗った肉体は均整がとれていて少し意外に感じる。衣服の上から見る感じだと、もう少し細い気がしたのだ。どうやら彼は着痩せするタイプらしい。 晴香は自分が彼の体を過去無意識のうちに想像していた事にも、今現在不躾な程じろじろと眺めている事にも気付かず、八雲がベルトを外し終わってジーンズに手を掛けるまで彼の動作に魅入っていた。 八雲は始めそんな彼女を見て手を止めて目を丸くしたが、その余りの無心さにやがて苦笑いを漏らした。 「そんなに人の体が見たいのか?」 「へ?」 からかうように問いかけられ、漸く晴香は我に返ると首がもげそうな勢いで横に振った。 「ちちちちち、違う!」 「お望みならこのまま脱ぐけど」 「だから違うってば!今部屋から出るから待って!」 慌てて机の上のバッグを抱え込むと、八雲が制止の声を掛ける。 「落ち着けって。あっちを向いてるだけでいい、すぐ済むから」 指差された方向にすぐさま振り向き、晴香は顔を赤くしたままバッグを抱きしめるようにして立ちすくんだ。 無意識とは言え、男性の着替えをじろじろ眺めるなんて。 自分のはしたない行動を思い返すと顔から火が出そうだ。 …八雲は、どう思ったんだろう。 鋭いひとだから、彼に対する純粋な想いも、純粋じゃない気持ちも、悟られてしまったかもしれない。 気になるけれど今振り向くわけにもいかず、晴香はこっそり溜息を吐いて視線を真正面に据える。 目の前には雨の打ち付ける窓ガラス。 そこをひっきりなしに…舐めるように伝っていく水滴を眺めながら、晴香は己の速い鼓動の音に耳を傾けていた。 End.
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