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□1.雨の日の散歩
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 午後の講義が終わり、教室を出てその棟を後にしようとして、晴香はピタリと脚を止めた。

 先に出た人が閉め忘れたのだろう、開け放たれた扉から風に乗って雨の匂いがやってくる。



「さっきまで晴れてたのに…」



 濡れるぎりぎりまで身を乗り出し、空を見上げてぽつりと呟く。

 快晴とまではいかなくても、それなりに日の光が顔を出していたのだ。それが90分の講義の間に様相を変えて、空は重たい雲に覆われ雨を降らせている。

 晴香はサンドベージュのレザーにオレンジのパイピングの施されているバッグから折りたたみ傘を出し、空に向かって突き出すようにして開いた。

 今日はこの後、講義もバイトもない。…となれば、行くところはただひとつ。 八雲のところだ。




 彼に出会ってからずっとトラブルばかり持ち込んでいたが、いつしかそんな厄介事など無くとも自然に隠れ家に出入りするようになった。

 押し掛ける形ではあるが、同好会の会員として名を連ねてる以上、あの部屋に出入りする権利はある。そう自分にも彼にも言い訳をして通い詰めて、もう1年半以上。誰よりも傍にいるのに誰よりも曖昧な関係、というのを維持し続けている。




「うわ、結構降ってるなあ」



 一歩踏み出した途端に雨粒の音が耳を襲う。傘の生地を叩く水滴の奏でる音は、どこかリズミカルで楽しい。

 晴香は僅かに微笑みを浮かべ、足元を気にしながら歩き出し、そして背後から聞こえた声にピタリと動きを止めた。




「おい」




 名前も呼ばず、たった2文字で人を呼び止める人間など晴香は1人しか知らない。

 それ以前に聞き慣れたこの低い声を間違えるわけがない。だって、彼は晴香の想い人なのだから。



「私はおいって名前じゃありません」



 振り返りもせずに可愛げの無い事を言う。



「そこのトラブルメーカー、どうせこれから僕の部屋に行くんだろ?入れてくれ」



 人にものを頼むのは思えない物言いに、晴香は溜息を吐いてくるりと身体を回転させる。

 腰に手を当てて見ると、今出てきたばかりのE棟の入り口に見慣れた白シャツの青年が立っていた。

 …雨で湿気が多い筈なのに、今日も絶好調の寝癖頭だ。



「部室に行くのはその通りだけど、そんな態度じゃとてもじゃないけど入れてあげる気にはならないな〜」



 態とらしくつんつんした態度を取ると、八雲は片方の眉を器用に上げ、苦笑いを浮かべて肩を竦めた。



「…じゃあどうすればいい?」



 逆に聞き返されて、一瞬言葉に詰まる。少しからかいたかっただけで、特に考えてなかった。


 でも、どうせなら自分の望みを言ってみようかな。

 晴香は少し考え込んだ。それから何かを思いついたらしくぴこんと頭に電球を光らせ、人差し指を桜色の唇に当てて微笑む。



「じゃあ…そうだなー。ちゃんと名前で読んでくれたら、お願いきいてあげる。どう?」



「馬鹿馬鹿しい」



 折角の提案も鼻で笑われ、即座に却下される。正直、面白くない。



「あっそ。じゃあもう知ーらない、ばいばい」



 そう言って少し残念な気持ちで彼に背を向ける。

 1、2歩フェイントで進んだら、振り返って傘に入れてあげよう。



 そうほくそ笑みながら踏み出した矢先、華奢な背中にとすんと何か温かいものが触れた。

 驚いて顔だけ巡らせると、傘の骨の先に指をかけて押し上げた八雲がニヤリと不敵な笑みをすぐ後ろに立っていた。



「なっ…」



 傘の下に入り込む大きな身体、同時にさりげなく腰に回った腕に、かぁっと頬が赤くなる。まるで背後から抱かれているような距離に、思わず傘の柄(え)を取り落としそうになる。

 慌てて握り直したその小さな手ごと節くれだった大きな手で包まれ、晴香は更に激しく動揺してしまった。



「なにっ…」



「何って、強行突破」



 揺れる瞳で見上げれば、八雲は悪戯っ子のように笑って答えを返す。鼓動を速める自分と違い余裕なその態度が悔しくて、晴香はぷくっと頬を膨らませた。

 怒ってみせるのは形だけ。こんなに近くにいる彼に、動揺してるなんて悟られたくなくて、精一杯虚勢を張っているだけなのだ。



「もう、仕方ないから入れてあげるよ。その代わり、傘は八雲くんが持ってね」



 自分ばかりどきまぎするなんて不公平だと思いながら八雲に傘を押し付け、さっさと歩き出す。彼は珍しく皮肉も文句も言わず、おとなしく後ろからついて来た。





 大学の敷地内の、プレハブまでの短い距離を2人で並んで歩く。


 濡れるからもっと寄れと肩に回った手が、そこに触れている場所が…熱い。




 そんな僅かな時間の散歩が、晴香にはとても貴重なものなように思えた。













1.雨の日の散歩  End.













梅雨入りしたので・・・雨のお題にチャレンジです。ちょろっと続きます。








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