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□5.雨音響く夜
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 薄暗い室内に、雨の音だけが響いている。



 晴香の行動に八雲は驚いていた。

 真っ赤な顔して騒ぎ立てる彼女と喧嘩して、そしていつものように晴香が膨れて終わるのだろうと思っていたのだ。その後は、そっぽを向いて座る彼女に冷蔵庫の中に入っているチョコレートでも差し出して宥め、元通り。

 ――――動かない、友達以上恋人未満の曖昧な関係。



 そう、今までと同じ。


 きっとそれでいいのだろう、と思っていた。ふざけた態度の裏側にある本音を知られず、今までもこれからも、このままのぬるい関係でいる方がいいのだと。



 だから、あんな狡い物言いをした。



 決定的な言い方を避けたのは、2人の間に余地を残しておきたかったからだ。

 彼女が躱して、逃げる余地を。


 一度手にいれたら、自分は決して捕えたまま逃がさないことが、分かっていたから。


 そして、捕まえてしまいたい気持ちがどうしようもなく強くなっている事に、気付いていたから。


 このままだと、きっと追い詰めてしまうから。









 彼女が誰より大切だと自覚して、どれくらい経つのだろう。


 初めはこの瞳に素っ頓狂な感想を持つ、変わった感性の、唯一の例外というだけの存在だった。この先自分と深く交わる事はなくとも、そういう人間がいたという事実だけで満足だ、と思った。

 なのに気付けば晴香は当たり前のように隣に居て、何を言っても笑い、どんな暗い過去も知っても受け止めて…光になってくれた。


 そう。彼女は…特別な、大事な人。長く暗い雨の夜を、終わらせてくれたひと。


 自分の感情が何なのかわからなかった時は、ただ単に「大事だ」「必要だ」とだけ思うだけだった。それが、異性としての感情を抱いていると気付いた頃から、この曖昧な境界線を全て消してしまいたいと強く願うようになった。

 自分の背負っているものを思えば、それは許されざること。だけれど、その戒めなど強い想いの前では塵のように消えていった。勝手なものだと、自分でも思う。本当はこの気持ちを抱えたまま、身を引くべきなのだろう。

 それでも、もし、と望んでしまうのだ。

 もし、晴香が受け入れてくれるなら。望んでくれるなら。




 この手をとってくれるなら。





 その時は、迷わずに――――。








☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★






「念の為聞いておくが、君は僕の言った事がわかってやってるのか?」


 掠れて聞き取りづらい声で、八雲が言う。もし、2人の距離がこんなに近くなければ雨音に紛れてきっと聞き逃していただろう。

 晴香は八雲を見上げ、長い睫毛をゆっくりと震わせた。


「えっと、多分、わかってる…つもりだけど」



 …もしかしてまた、空回りしてしまったのだろうか。


 口に出して改めて確認をされたことで急激に不安と羞恥心が込み上げてくる。晴香は白い脚をもじもじさせながらシャツの裾を下に引っ張った。


「本当に?子供同士の『見せて』とはわけが違うんだぞ、わかってるのか?」


 ぐっと真剣な顔を寄せられて、いつもの面倒臭そうな口調とは違う強いそれに怯え、晴香は思わず一歩下がった。…が、先程落としたままのジーンズは足首辺りでもたついていて、そこに足を取られて後ろに体が傾く。


「きゃっ…!」


「!!」


 咄嗟に伸ばした手は八雲のシャツの胸倉を辛うじて掴み、そして意表を突かれた八雲は晴香を支えきれずにそのまま同じく体勢を崩してしまう。



 ――――ガタン!!



 騒がしい音が、雨音のなか鋭く響く。


 途中に机があったので床に転がるのはまぬがれたが、その代わり晴香は机の縁(ふち)にしたたかお尻を打ち付け仰向けに倒れ込んだし、胸倉を掴まれたままの八雲もその上に覆い被さるのを、机に手をついて漸く防いだ形だった。



「い…いたた…」


 後ろに片肘を付いて上体を少し上げた晴香は、すぐ傍にある八雲の顔にどきっとしてしまう。

 転んだ衝撃が去り、今の自分達の状況を省みて、二人は驚きに目を瞠(みは)りながら互いを呆然と見つめていた。




 強い雨に閉じ込められ、夜の足音がすぐそこまで来ている部屋の中、まるで机の上でこれから「何か」しようとでもいうような危うい体勢。

 八雲は晴香の上に半ばのし掛かっているし、晴香は白くしなやかな脚を晒して、まるで八雲を誘惑するように彼のシャツの胸元を自分の方に引っ張っている。



 それが、今の自分達の体勢だ。



 晴香ははっと我に返り、掴んだままの八雲のシャツを慌てて離すと、頬どころか細い首まで紅く染めあげた。

 ここから起き上がろうにも、八雲が退いてくれないと抜け出せない。なのに八雲は固まったまま動く気配がない。晴香が一度逸らした視線をもう一度上目で窺うように戻すと、盛大な溜息が降ってきた。


「あ、あの、八雲くん?」


「…………ひとつ、聞いていいか?」


 いつもより低い、静かな声。それでも相変わらず彼の声はよく通る。


「な、なに?」


 何もこの状態で問わずとも良さそうなものなのに、と晴香は首を傾げる。八雲は危機感の薄い晴香の顔をじっと見下ろして呟いた。


「君は、僕を誘ってるのか?」


「ち、ちがっ…!」


 真っ赤な顔で違う!と言いかけて、晴香は口を噤む。

 確かに、今のはわざとじゃない。たまたま八雲を巻き添えにして転んでしまっただけで、何の意図もない。でも、転んだ原因の、ぶかぶかのジーンズを落としたのはやっぱり下心があったから。

 八雲が見たいなら、見せてもいい。彼が望むなら、その先だって。寧ろ自分もそれを望んで…そうなったらいい、とすら思っていた。


 …ということは?



「ちがう…あ、あれ?違くない、のかな?」


「僕にきくな」


 暫し考えこんだ後、きょとんとした顔で尋ねる晴香に、八雲は唸るように答えた。



「まったく、君は…」


 八雲は小さくひとつ、舌打ちをする。彼の下でまだ「どっちなんだろう」と悩んでいた晴香は、その音で顔を上げた。

 目の前に、白いシャツが迫ってくる。彼は晴香の上から退くどころか、逆に上体を前に倒して机の上に肘をついた。自然、近付いてくる八雲に押されるように素直に晴香の身体が横たわり、机と八雲に囲まれてしまう。


「やく…」


 晴香は彼の意図が掴めずに、大きな瞳を更に大きくして自分に覆い被さる男を不思議そうに見上げた。

 翳りのある赤と黒が、強い意思を宿している。それに魅入られたように、ふっくらした唇を薄く開いた晴香を見て、八雲はどこか苦しそうに目を細めると、喉の奥から声を絞り出した。


「無防備が過ぎるから、こういう目に合うんだ…」


 無防備だったかもしれない、でも無邪気だったわけじゃない。

 そう言おうとしたけれど、体勢のせいなのか緊張のせいなのか、上手く声が出ない。ただ、心臓の音と雨の音が混じりあって耳の奥で反響しているのを聞き、ゆっくりと漆黒の頭が下りてくるのを、晴香はじっと見つめていた。



 八雲の端正な顔がすぐ傍を通り過ぎ、頬を髪が掠ったと思うと、次には温かくて柔らかいものが細い首に触れる。



「……っ」



 吐息が肌に触れ、吸い上げられる微かな痛みと共にぞくりと背筋が痺れる。シャツの裾から大きな手が潜り込んできても、熱くて固い手のひらが腰から柔らかなお腹を撫で上げても、晴香はただ身体を震わせるだけだった。



 大きな身体は、その白さが嘘のように体温が高く、冷えた晴香の身体を暖める。

 奪われる予感に慄きながらも彼の体温にどこか安心していた晴香は、八雲に一切抗わず、その動きわおとなしく受け入れていた。

 八雲の手はゆっくりとなめらかな肌を這い、胸まで行かずに鳩尾の辺りで止まる。晴香が身体を強張らせたのを感じたのか、八雲は溜息を吐くとするりとシャツの中から手を抜いた。



「…?」


 身体の上から重さと温もりが消えて、急に空虚感に襲われる。閉じていた瞳をそっと開くと、目に入ったのは呆れたような怒ったような八雲の顔だった。


 晴香は八雲がどうしてそんな顔をするのか分からなかった。

 差し出された手に掴まり、上半身を起こして机の上にちょこんと座る。起き上がった反動のまま下を向くと、めくれ上がった白いシャツからのぞく自分のお気に入りの下着が目に入った。

 既に見られてしまったのだろうけれど、わたわたと慌てて裾を掴んで引っ張り腿まで隠す。脚を閉じたかったけれど、八雲の身体があるためそれは叶わない。

 羞恥を誤魔化すように乱れた髪を耳にかけると、八雲が静かに問い掛けてきた。


「…何故抵抗しない?」


 平坦な声だけれど、僅かに不機嫌さが混じっているのは長い付き合いだからわかる。ちらりと目だけで窺うと、案の定口をへの字にした八雲がこちらを見下ろしていた。


「…抵抗する理由がないもの」


「君は理由がなけりゃ誰に対しても抵抗しないのか?」


 あまりに失礼な八雲の言葉に、晴香は眦をきっと上げて睨みつける。

 まるで、相手が嫌いな人でなければ誰でも受け入れる女だとでも言われているようだ。

 傷ついたのも相まって、頭に血が昇った晴香は八雲の手を振り払った。


「そんなわけないでしょ、馬鹿にしないでよ!他の男の人だったら、そもそも服借りる前にさっさと家に帰ってるよ」


 それ以前に、余程でなければこんな大雨の中会いに来たりしない。

 好きだから、会いたいから、僅かな時間でもと脚を運ぶのだ。

 それを気付いていないのか、それとも気付いていて素知らぬ振りをしているのか。どちらにしても、やるせないことに変わりない。


「他の人なんて…あり得ないよ」


 吐き出すように言ってそっぽを向いたのは、涙が滲みそうになったから。八雲は晴香の腕を掴んで自分の方に向かせたが、彼女は顔を背けてそれを拒絶した。


「ということは抵抗しないのは僕にだけなんだな?」


「そうだよ」


「本当に?」


「当たり前でしょ!」


「どうして?」


「え?」


 意外な問いかけに、思わず顔を上げて八雲を見る。その顔は先程と同じく真面目な表情だが、さっきの不機嫌さはもうない。


「どうして僕だと抵抗しないんだ?」


 理由を問われ、噛み付くようだった勢いがみるみるうちに縮んでいく。


「どうして、って…」


 答えなんて一つしかない。でも、その一言が簡単に言えるくらいなら、こんなに長く曖昧な関係を続けてなんて、ない。


「それは…その…」


「それは?」


「う……」


 晴香は視線を彷徨わせ、見るからに狼狽え始めた。しっかりと腕を掴まれ、顔を覗き込まれて焦りと困惑でじわじわと頬が薔薇色に染まっていく。


 しっかり、と晴香は自分に言い聞かせた。

 2人の関係を、変えたいんでしょ。ここで、このシチュエーションを利用しないでいつ言うの。

 そう思ってはいても、口を開いても出てくるのは震える吐息だけ。晴香は相当この状態に動揺していた。


 情けなく眉を下げ、潤んだ瞳で見上げると、心なしか八雲の強い眼差しが緩む。




「教えて」




 いつもの皮肉っぽさの無い、優しい声で促され、晴香はぎゅっと目を閉じた。



















End.























いやもう、なんか話とかじゃくて趣味一直線に・・・。いやー、でも書いてて楽しかったです笑



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