早鐘を打つ胸に、ぎゅっと拳を押し付ける。 窓の外の雨の景色も目に入らず、ひたすら後ろの衣擦れの音が止むのを待つ。ほんの僅かな時間なのに、それがいやに長く感じられた。 「さて…と。もういいぞ、終わった」 いつも通りの八雲の声に、ほっと身体の力を抜いて振り返る。八雲はきちんと着替え終わって、こちらに背を向ける形で脱いだものを簡単に丸めて片付けていた。 「私、お茶淹れるね」 瞼にちらつく白い身体を紛らわせたくて、八雲の方を見ないようにしてそそくさとビーカーとアルコールランプを取り出す。お湯が沸くのを待っている間もなんだか気まずくて、ずっと彼に背中を向けていた。 今迄何度か雨宿りにこの部屋を使っているが、こんなに居心地が悪く感じるのは初めてだ。 そして、こんな日に限って、雨は中々やみそうになかった。 「……っくしゅん」 突然こみ上げてきたものを堪え切れず、両手で鼻口を押さえて小さくくしゃみをする。八雲は晴香がお茶を淹れる間、古びたパイプ椅子に座ってぼろぼろのペーパーバックを読んでいたが、彼女の可愛らしいくしゃみを聞いて顔をあげた。 視線から逃げるように動いていたためか、八雲は今の今迄彼女の半身が濡れている事に気づいていなかった。タオルで拭いたとは言え、未だかなり濡れている衣服を見て彼の眉間に皺が寄る。 「ったく、君は…」 彼は腹立たしげに舌打ちをし、がたんと席を立つ。何事かと目を丸くしている晴香の傍を通り過ぎ、ロッカーを開けて中をざっと漁る。 「なんでさっさと濡れてると言わないんだ。そんな格好でいたら、寒いに決まってるだろ?馬鹿は風邪引かないとは言うが、それだって万一ということがある」 「あのねぇ、さりげなく人を貶すのやめてください。それに服を借してってお願いしようと振り向いたら、八雲くんが着替えてたの!」 仕方ないでしょ!と、頬を膨らませると、八雲がこちらを振り向いた。 「ああ…成る程」 ニヤリと意地悪く笑う。 「僕に見惚れてて忘れたわけだ」 「みとっ…、見惚れてなんかいません!」 差し出された着替えを引ったくるように受け取りながら、晴香は真っ赤になって怒鳴った。 怒ってるわけじゃない。 見惚れているいないは別に、ずっと見ていたのは本当だ。それを本人に知られて指摘されるのが気まずくて、つい語気が荒くなってしまった。 「ありがと!」 貸してくれたのは嫌という程見慣れた白いシャツにジーンズ。不貞腐れながらお礼を言う晴香をおかしそうに見やって、彼は「外にいるから、着替えたら呼んでくれ」と言ってさっさと部屋から出て行ってしまった。 「さむ…」 ぶるりと大きく身体を振るわせ、慌てて机の上に借り着を置き、タオルで濡れた箇所を軽く叩くようにして拭く。このままだと本当に風邪をひいてしまいそうだったので、晴香は腕を交差させてトップスの裾を掴むとさっさと服を頭から抜き取った。 現れたのは、細く白い肢体。質感は違えど同じ白い肌のせいか、晴香はさっき見た八雲の肉体を思い出していた。 自分の柔らかい身体とは全然違うその力強い姿に、ときめきと、それから一抹の不安が胸を過(よ)ぎった。 あんなに大きいのだ。彼が本気でどこかへ行ってしまおうとしたら、自分のこの小さな身体では止めようとしても簡単に振り払われてしまうに違いない。せめて、後藤ぐらいはないと。 以前、勝手に消えたりはしないと約束をしたけれど、それはあくまで「友だち同士」としての約束。効力なんて高が知れている。 友だち以上の気持ちを彼に抱いている晴香には、その不確かさがとても不安だった。 もっと近い存在になりたい。 もっと…もっと確かなものがほしい。強固なものが欲しい。 それには、今の立場では…「大切な人のうちの1人」では駄目だと、心の何処かで解っていた。 「わかってるだけじゃ、駄目なんだけどねぇ…ん?」 濡れた衣類を全て脱ぎ、八雲のシャツを着てジーンズに脚を通したところで、晴香の動きが止める。 当たり前だが全てが大きい。 シャツの袖で手が隠れてしまうし肩は全く合わず落ちてるし、第1ボタンが取れているせいもあって首回りはゆるゆるだ。 そしてジーンズと言えば。 長さはまるで「殿中でござる」だし、何より手を離すとすとんと落ちてしまうのだ。それはもう、足元まで一気に。 取り敢えず裾を折り返して、ウエストまで引き上げた状態でずっと手で押さえながらきょろきょろと周囲を見回す。 あのロッカーに衣類が仕舞ってあるのは知っている。でも、勝手に開けるのは流石にまずいだろう。 「どっちみちベルトも大きいだろうから、意味ないかな…」 シャツは太腿の中程まで隠してくれているし、ジーンズが脱げてしまっても大した問題はなさそうではある。 それに一緒にいるのは、晴香の前でも平気で着替える八雲。きちんとこちらを女性として認識しているのかすら怪しい彼の事だ、シャツの丈が下着ぎりぎりだとしても、恐らく気にも留めないだろう。 ……なんだかすごーく悔しい。 考えると腹立たしいのを通り越して哀しくすらなるので、晴香はぴしゃりと思考を遮った。 「まあ、いいか…。うん、いいや」 小さく肩を竦め、ふ、と息を吐く。 着替え終わった事だし、八雲を呼んでこないと。 ジーンズを押さえたまま、晴香は小股でちまちまと移動をし、そっとドアを開いて顔を覗かせた。更に雨が強くなったようで、外部への視界はおろか音すら遮られている。 「終わったか?」 「うわっ」 思ったより近くから声を掛けられ、驚いて小さく悲鳴をあげてしまった。 彼は扉の横の壁に腕を組んでもたれかかって、大欠伸をしていた。 「あんまり遅いんでとうとう元の姿に戻ってしまったのかと思った」 「元の姿?」 「亀だよ」< 「ほんっと八雲くんて失礼だよね!」 「それはどうも」 「褒めてない!」 睨みつけてもどこ吹く風、八雲は眠そうに目を擦り、壁から背中を離して晴香を軽く押し退けるようにして部屋に戻った。 「まったくもう…」 その後ろ姿に眉を顰め、それからまた表に顔を向ける。 部屋に戻る前にけぶったような外を一通り見回したが、流石にこの天気なので人っ子一人通らない。 どこか懐かしい、この季節独特の雨の匂いを深く吸い込んだ後で扉を閉めると、少しだけ世界が遠ざかる。 雨の音が分厚いカーテンのように外部を遮り、加えてプレハブ棟内はひっそりとしているお陰で、晴香にはまるで薄暗いこの部屋だけが浮き上がっているように思えた。 雨の中、好きな人と閉じ込められて2人っきり。 シチュエーションとしては中々良いが、当のお相手はこちらには目もくれず、またしても大欠伸して眠そうな目を擦っている。そのうち人の話を聞き流しながら小難しそうな本を読み、居眠りをしてしまうに違いない。 晴香は諦めたように溜息を吐き、パイプ椅子にちょこんと腰を下ろした。 End.
七節 |