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集落へ戻るヨルヤとカエデを見送り、私は空を見上げた。
月は出ているが、雲が多い。肌にまとわりつく空気も、どことなく湿気っぽい。

「一雨来ますね…」

中央広場の方へ出かけようかとも思っていたが、やめておいたほうが良さそうだ。
そう思い、自分も部屋へ戻ろうと踵を返した。

「ん?」

その時、視界の隅で何かが動いたような気がして、私はそちらへと視線を向ける。
私の家は森の奥にあるので、迷子になった人がよく訪れる。
ただ、ウィッカの領土ギリギリの場所でもあるので、迷子だったとしても東に攻めに来た北のアナザーだったりするので放置することもある。
だけど、今日はそろそろ雨も降り出すだろう頃合だ。声をかけてみるだけでもしておいたほうがいいかもしれない。
そう思い、気になる方角へと足を向けた。
そうして私は、『ソレ』と―彼と出会ったのだ。

「…えっと?」
「………」

木の根元に蹲る、くすんだワイン色の髪の青年は怯えたような目で私を見上げている。例えるなら、それは捨てられた子犬のような目というか、なんというか。目が合ってしまったからには放置できないというか。なんとなく、庇護欲を掻き立てる何かがあった。
まあ、私より20cm程身長が大きいようなので、子犬というよりは大型犬だったが。

「えっと…迷子、ですか?」

声をかけてみるが、返事がない。ただ彼は私のことを見上げているだけだ。

「んーと…所属はどちらですか?」
「………」
「どの方角から来ました?」
「………」
「お名前は?」
「………」

返事がないどころか、喋らない。
目を合わせたまま、微動だにしない。
どうしたものか、と頭を抱える。空の様子からして、本当にすぐ雨が降り始めるだろう。このままこの人を放置しておいてもいいものか…。

―クゥ…

悩んでいた私の耳に、そんな小さな音が入ってきた。
それは、青年の腹から聞こえてきた音で、当の本人は少し顔を赤くしていた。
察するに、先ほどの音は彼の腹の虫が鳴いた音、だろうか。

「…ふふっ」

思わず笑ってしまった。途端にさらに顔を真っ赤にした青年が可愛くて仕方がない。
少し涙目になってしまった青年に、私は手を差し伸べた。

「家に来ませんか?雨も降りそうですし、簡単な食事ならお出ししますよ?」
「………」
「一緒に行きましょう」

一瞬、青年が目を見開いた。そこで私はようやく、彼の瞳がとても綺麗な黒色だと気が付いた。
それは、まるで。黒曜石をそのままはめ込んだような、深い深い闇の色。
おずおずといった様子で、青年が私の手を取る。重ねられた手の温もりに安堵したのか、青年の表情が僅かに和らいだ。

「私、ヨヒラといいます。貴方は?」

彼を立たせ、改めて問う。
私よりも背が高いはずなのにどこか小さく見える彼は、少し吃りながらも、初めて返事をくれた。

「え、と……ディース…」
「それが貴方の名前なんですね」
「う、うん」
「ディース様…うん、素敵な名前です」
「そう…?」
「ええ、もちろん」

彼―ディースの手を引いて、歩き出す。
はぐれないようにと繋いだ手を、彼の手が少しだけ強く握り返す。何かに縋るようなその仕草に、すこしだけ不安を覚える。
彼はどこのウィッカのアナザーだろうか。どうしてこんな森の奥にいたのだろう。どうして、
彼の足首には鎖付きの枷が嵌められていて、手首から指先にかけてひどい傷跡があるのだろう。

「……あ、ちょっと急ぎましょうか」

ちょん、と鼻先に触れた雫に顔を上げる。最初の一滴を皮切りに、灰色の空から雨が注ぎ始める。
ディースを引っ張るようにして、森の中を走る。家からそう遠くない場所でよかったと、安堵のため息をつく。
そんな私の手を握りながら走るディースの表情など、この時の私は見ていなかった。
泣きそうな顔をしていたなど、知らなかったのだ。

*
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