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久しぶり、と甘く絡みつくような声音に、私は思わず懐に入れていたいくつかのソウルストーンに手を伸ばしていた。
あれだけ降っていた雨が今はぱったりと止み、雲の切れ間からわずかながらも月の光が差し込んで目の前の青年の姿を浮かび上がらせる。
くすんだワインレッドの髪にはさらに赤い血がべったりとこびり付き、付着してからだいぶ時間が経っているのか酸化して黒ずんでいた。同じ色の睫毛で縁どられた瞳は夜空のように真っ黒で、吸い込まれそうなほど澄んでいる。
そんな彼の姿を、私は知っていた。
もっと近くで、もっと明るい場所で。私は彼と触れ合ったのだから。
そして私は、彼の名前も知っていた。

「…ディース」
「覚えていてくれたの!」

彼の名前は、ディース。だけども私はそれしか知らない。彼が何者なのか、どこのウィッカのアナザーなのかも、何も知らないのだ。
嬉しいなぁと笑うその声は見た目よりも幼い印象を見るものに与えた。だけども血が飛んだ頬が、赤く染まった手が、手にした鎌が、ひどく不釣り合いだ。
彼の体中を濡らす血はまだ乾いていない。雨で流れ落ちてもいない。おそらくこの付近に、新しい被害者がいるのだろう。
早く探し出して手当しなければ、手遅れになるかもしれない。私たちアナザーに死≠ニいう概念があるのかどうか疑問だが、早く助け出すに越したことはない。
そのためには、まずは彼を…ディースをどうにかしなくてはいけない。

「…グラシャ、鎌を貸してください」
「…大丈夫か?」
「何とかします。ここら辺の地形は把握してますし、いざとなったら逃げます。だから…」
「…あいよ。言っても聞かねぇんだろうしな、お前さんは」
「さすが、長い付き合いなだけありますね」

苦笑しながらも鎌を手渡してくれるデビルに、私も思わず笑みがこぼれる。鎌を手放したグラシャは、そのままソウルストーンの中へと戻っていった。
ずしりとした重さを持つ、自分の背丈よりも大きなその鎌をくるりと回し、刃を下に向けるように構える。

「よくわかっていてくれて、嬉しいです」
「…ヨヒラさん?」

私とグラシャの会話を聞いていて不安になったのか、水無月様がおずおずと私の肩に手を置いた。
その手に自分の手を重ねて、大丈夫ですと笑ってみせる。
うまく笑えただろうか。少し、自信がなかった。

「彼は私が抑えますから、その隙に森の奥へ。おそらく、被害に遭った人がいるはずです。助けてあげてください」
「そんな…一人じゃ危険です!私も一緒に…」
「ひとりじゃないですよ」

水無月様の言葉を制して、懐からいくつかのソウルストーンを取り出す。
それは、私が出会い、共鳴してきたデビルたちが封じられているもの。ふわりと輝いたそれらは、私の周りにくるくると浮かび、舞い始める。

「…みんながいます。だから大丈夫です」

アナザーは単独では戦えない。必ず、彼らデビルの力を必要とする。
デビルたちも、アナザーと出会わなければソウルストーンから出られない。
その出会いが誰かの作為であれ偶然であれ、お互いに必要とし合う者同士。最初は意見がぶつかったりしたけれど、今はもうともに戦う大切な相棒たち。
彼らが一緒なら、私は大丈夫。

「それに、ここは東の領土です。水無月様を巻き込むわけにはいきませんよ」
「でも…あの人とヨヒラさん、知り合いなんでしょう?久しぶりって…」
「んー…彼が何者なのか、私も知りたいところです。名前しか知らないんですよ」
「え!?あ、あんなに親しげに話しかけてきたのに!?」

自分でも、なぜあんなに親しげなのかよくわからない。まぁたしかに、親切にした覚えはあるのだが…。

「…ヨヒラ…」

視界の隅で、ゆらり、とディースの体が揺らいだ。ある程度距離が開いていたのに、彼は一瞬でその距離を詰めて刃をふり下ろそうとしていた。

「…っ!」

月の光を反射する黒い鎌を、手にした鎌で受け止める。金属同士が擦れ合う音は決していいとは言えず、力と体重を込めて相手を大きく弾いた。
びり、と手首に痺れが走る。男と女の力の差なのか、一撃が非常に重かった。そう何度も受け止められそうにない。
それ以前に、今の一撃で分かった。彼は戦い慣れしている。実力の差がありありと分かった。万が一にも勝ち目はないだろう。
だけど、退くわけにはいかない。

「ね、その人…違うウィッカの人でしょ?」
「だから、狙うんですか?」

先ほどの攻撃は、確実に水無月様を狙っていた。予告もなしに攻撃を仕掛けるのは明確なルール違反だ。
本当に、彼が北のウィッカで騒がれている事件の犯人かもしれない。

「だって、他のウィッカの人は倒さなくちゃいけないんでしょ」
「たしかにそうですが、守るべきルールと払うべき敬意があります。それらを無くしたら、この島は無法地帯になります」
「だから、俺を止めるの…?」
「ここは我が母君、クルーデリス様の治める地。いかなる理由があろうと、穢すものは許せませんし、許しません。それに…」

鎌を両手で構え直し、今度は私が間合いを詰める。
踏み込んだ右足を軸に体を反転させ、下から掬い上げるように鎌を振り上げる。
ディースの鎌の刃を引っ掛けるようにして上に持ち上げ、手首を捻って刃で刃を絡め取る。鎌という武器はたしかに扱いにくいが、慣れてしまえばどうということはない。力のない私でも、こういう絡め手な技ならば格上とも渡り合える。
一瞬で自分の武器を封じられたことに目を見開いているディースに、私は抑揚のない声で告げる。

「私の友人に刃を向けて…ただで帰すと思ってるんですか?」

ねぇ?と首を傾げてみせるとディースの顔から表情が消えた。
だけど一瞬だけ、泣きそうな顔をしたように見えたのは…気のせいだろうか。

「そう…なら、邪魔だ。容赦しない」
「怖いですね。…水無月様!今のうちに!」

ディースが力任せに鎌を振り解き、私は大きく後ろに弾き飛ばされる。雨で泥濘んだ地面では滑ってしまい体制を立て直すのが難しい。横薙に振るわれた黒い鎌を柄で受け止めて、私は水無月様を促した。

「…無茶、しないでくださいね!」

駆け出していく水無月様の方へと、ディースが一瞬視線を向ける。その隙を見逃さず、体を屈めて攻撃を受け流し、石突をディースのみぞおちへと叩き込んだ。

「ぐっ…!」
「よそ見は禁物です」

呻き、ひるんだディースからバックステップで距離を取る。
くるりと鎌を回し、左足を一歩引いて、一礼。

「…東のウィッカ所属、日陰の紫陽花・ヨヒラ」

戦いにおいて重要なのは、勝ち負けではない。相手に敬意を払い、悔いのない勝負をすること。
勝負の前に名を告げるのは、私流の礼儀だ。相手がルールを無視するものであっても、礼儀は払わねばならない。それは変わらない。

「…参ります」

それに何より、彼は私が止めなければならないのだから。
この口上には、そんな決意も込めていた。

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