突発的血液不足
□@『発端』
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眠気を覚ます為に大きな欠伸を一つ。
空気を目一杯に取り込んで吐き出す。自然に吸い込まれた味噌汁の香り、炊き立ての飯の湯気。
吐き気がした銀時は、箸を置いて立ち上がった。
「ちょっくら外行ってくるわ」
向かい合う新八。隣に座る神楽に、身体の変化を悟られないように普段通りを装って気怠げな声を出す。
そしてテーブルの上に置かれた質素な朝飯越しに、喫驚した新八の顔を見た。
「え…銀さん、ご飯いらないんですか!?」
「今日、新台が出るの思い出したんだよ。並んどかないとさー、いいとこ取れないだろ」
「またパチンコですか!?少しはお金を貯えておこうとかいう考えはないんですかアンタ!」
「ぱっつぁん。男には、やらなきゃならねー時がある。それが……今なんだよ」
「今なんだよ。じゃねーよ!!かっこよく決めきれてないから!!中身ペラペラだから!!」
「それにな、男には負けると分かってても戦わなきゃならねー時がある。それが……」
「今じゃねーよ!!負けると分かってたら止めろォォォ!!銀さんも分かっていると思いますけど、僕らはお金に余裕がないんですからね!?」
「んだよー…うっせぇな。分かった分かった。さくーっと勝ってくればいいんだろ」
「問題はそこじゃないだろォォォ!!そもそもパチンコなんて賭け事にお金を使わないで……って銀さん!?」
はいはい。と新八の小言を適当にあしらって、銀時は玄関へと向かった。
「銀ちゃんの分、いただきアル!!」「あ、ちょっと…神楽ちゃん!!」と背後からそんなやり取りが聞こえる。
毎日のように聞いている騒がしい声。なんだか今日はそれが愛しく思え、銀時は穏やかで優しい笑みを口元に浮かべつつ万事屋を後にした。
パチンコに行くというのは嘘だ。
銀時は適当に時間を潰すため、宛もなく通りを往く。まだ人が少ない時刻。カラスが黒い目を光らせてゴミ捨て場の袋を漁っていた。
銀時は数日程前から身体の異変を感じていたのだ。それも厄介なことに徐々に悪化しているようである。
一番は食欲がない。いや、食欲がないと言うよりは食べ物を受け付けないという方が正しいかもしれない。腹は減っている。腹の虫も健在し、定期的に主張をするにも関わらず、いつもの飯がとにかく不味いのだ。
不味いだけならば良かったのだが、昨晩からは食物を口に入れると吐き出す始末。故に、昨夜はいちご牛乳を少し飲んだだけで済ませた。
どうせ風邪か何かだろう。なんて思っていたのだが、子供達に余計な心配を掛けたくないということと、吐き気を消し去りたいとのことで、とりあえず外に逃げた。
睡眠不足も重なって疲労感が半端ではない。身体が重い。
「俺も年かねェ……」
が、その一言で済ませる程の余裕もなくなってきていた。糖分も足りていないようだ。
異変を感じ始めたのは、数日前。飲み屋からの帰り道での出来事からである。
その日。電柱にでもぶつかりそうなくらいにフラフラとした足取りで夜道を歩いていた銀時は、数人の天人に絡まれた。肩が軽く触れただけだと言うのに、難癖を付けてきたのだ。
酒が入っていなければさっさと逃げられたが、走れる程に足はしっかりとしていなかった為、仕方なく木刀でお仕置きをしてやることにした。警察沙汰になっても嫌なので軽く、だ。
手を抜いた事がまずかったのか銀時も無傷では済まなかった。と言っても、殴られた蹴られた、ではなく首を噛まれただけであるが。
傷は小さく浅い。にもかかわらず、数日経った今でも傷は熱を持ち時折疼く。それに、その事があってから体調が優れないのである。
相手は得体の知れない天人であるし、何か病気を移されたのかもしれない。病院に行った方がいいかと考えた。
日差しが強いわけでないのに肌がジリジリと焼かれるような熱さを感じ、自然と日陰を選んで歩いていく。口内の水分が奪われていき唾液が粘ついていた。
今日はまだ一口も水分を取っていない事に気が付いて、自動販売機で飲料を買おうとする。しかし、
「あ……やべ。財布持ってきてねーじゃん」
どこを探しても、財布がない。銀時はガクリと肩を落とした。
このままでは病院にも行けないので、面倒だが一度家に帰り水分補給してから出直すことにする。
この時。銀時は何も分かっていなかったのだ。
食べられなくとも、人間は水分だけで数日は生きられると言うし。と甘い考えを持っていた。問題はそれほど大きくないと、思っていた。
呑気なものである。
徐々に身体が蝕まれているとも知らないで。
*******
結局、一刻程で帰宅する羽目になってしまった。
一時帰宅を気付かれないように、そっと戸を開ける銀時。しかし建て付けが悪いのかガラガラと音がしてしまい、案の定ひょっこりと姿を見せた神楽と目が合う。無駄な努力であった。
「あれ?銀ちゃん、もう帰って来たのかヨ」
「財布忘れちまった。……新八は?」
玄関には新八の草履はなく、神楽の靴が脱ぎ捨てられていただけ。
銀時も同じようにブーツを脱ぎ捨てて部屋に上がる。
「何やってんだヨ。新八は買い物に行ったアル」
「…ふーん」
「銀ちゃんが体調悪いんじゃないかって。それで消化の良いもの買ってくるって」
どうやらこちらも無駄な努力であったらしい。ばっちりと見抜かれていた。嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになる。
「はぁ?別に体調は悪かねーよ」
すぐにまた外に出るから。と一言残して、銀時は水分補給の為にそそくさとキッチンへ向かう。面倒なことになりそうなので、新八が帰宅する前に此処を出たい。
蛇口を捻り乱暴に顔を洗う。するとヒンヤリとした刺激に、幾分気持ち悪さが遠退いた。
ひと息ついて。いよいよコップに水を注ぎ、喉へと一気に流し込む。
「っ!!……げほっ」
しかし、喉を潤す事は出来なかった。
吐き気が込み上げてきて、全て戻してしまったのだ。胃の中には何も残っていないので、胃液と少しの水だけが排水溝に消えていく。
ついに水すらも体が受け付けなくなったらしい。
「……おいおい。水も飲めねーのかよ……」
「銀ちゃーん。悪阻には酸っぱいものがいいアルよー」
「うっせェェ!誰が妊婦だ!!」
リビングから呑気な神楽の声が飛んでくる。
やはりさっさと病院に行こう。そう思った時だった。
「…ん?」
口の中に違和感を感じ、鏡の前で歯を噛み合わせるように『い』の字に口を横に開いた。そこで、すぐに目に留まったのは二本の歯。
どうやら違和感の正体は上顎の犬歯のようで、僅かではあるが肉食獣の牙のように発達していたのだ。
「なんだよコレ……」
銀時は数日前の出来事を思い出す。確か相手の天人も今の自分と同じ様な、鋭く尖った牙のような歯を持っていた。
他に特徴的だったのは、青白い肌、金色に輝く瞳と鋭い爪である。それ以外は人間と対して変わらぬ容姿をしていたが、まさか。と神話や伝説でしか見たことのない化け物を思い浮かべた自分を笑った。
何も口にしていないせいか、眩暈がする。
喉の渇きも時間を追う毎に酷くなっていった。
「銀ちゃん、大丈夫かヨ」
気が付くと、神楽が心配そうに此方を覗いていた。神楽の白い肌に目を奪われ、ざわりと胸が騒ぐ。
「あ……あぁ」
「顔色悪いネ」
神楽の声が頭の中でぐるぐると回る。首の傷が激しく熱を持ち、身体が何かによって蝕まれる感覚が襲う。
「銀ちゃん…?」
「何でもねェ…大丈夫だ」
銀時の血の気のない青白い顔に、神楽は駆け寄って顔を覗き込んできた。
神楽の澄んだ瞳が、本当に?と聞いている。
銀時の鼓動が激しく脈打ち、思考が瞬間止まる。これは本能的にマズいと思い、銀時は逃げるように玄関へと駆けた。
「銀ちゃん、何か隠してるアルな!!あ、まさかパチンコでめっさ勝ったアルか!!」
フラついた足にブーツをねじ込んでいると、腕を掴まれた。
華奢な作りの身体から、しなやかに伸びた神楽の細い腕。
銀時の脳がこれは食糧であると信号を送る。
「独り占めしようったって、そうはいかな──」
そう言い終わる前に、銀時は神楽の小さな身体を壁に抑えつけていた。
ただならぬ気配に神楽の筋肉が強張る。一瞬の出来事に、何が起こったか理解していない所為もあるだろう。
少しの沈黙の後で、銀時の喉が鳴った。
銀時が神楽の首筋を指でなぞると、全身がビクリと跳ね上がる。
「銀、ちゃん…?」
普段と様子が違う銀時に対し、不安を隠せない神楽から弱々しい声が洩れた。
触れた指先から少女の体温が伝わり、脈の動きすらも伝わってくるかのような感覚。銀時は恐る恐ると顔を近付け、そこへ熱い吐息をふぅと吹き掛けた。
まだその身に経験したことのないゾクゾクと全身を駆け巡る熱に、戸惑う神楽。
未知の世界、快楽の扉が僅かに開かれる。
銀時が舌先で肌を舐めると、神楽が驚いて「あっ」と声を上げた。強すぎる刺激に神楽の腰が震え呼吸も乱れていく。
ここまでで止めるつもりだったというのに。
妙に艶のある声が少女の口から出て来てしまった。銀時の表情が変わった。
「うまそうだな、お前」
それは優しさも温かさも削ぎ落とした、人間らしさが欠落した笑みだった。
そして獲物を補食する前の獣のように獰猛に輝く瞳は、普段の赤いものではなく、金色である。
噛みつきたい。
この白く柔らかい首筋に思い切り噛み付き、全てを吸い尽くしたい。
それだけが銀時を支配する。そこに理性や庇護欲はなかった。
「ちょ……銀さん!何やってるんですか!」
鋭く尖った歯が神楽の肌に触れるか否か。間一髪のところで新八が玄関の戸を開けた。神楽の表情を見れば、事の異常性を見抜く事は容易であった。止めなければならないと、すぐに理解した。
しかし銀時は、それでも身体を退けることなく、欲に溺れた金色眼を新八に向けただけである。
「……!!」
見たことのない銀時の姿。
新八は蛇に睨まれた蛙のように、その場から動けなかった。息をするのがやっとであった。
顔から血の気が引いていき、部屋の温度が下がった気がする。
「銀ちゃん…」
「銀さん…」
少し怯えた表情の神楽と、青ざめた顔の新八。二人に見つめられて、銀時の瞳の色が、すぅと赤いものへと変わる。
「あ……れ?俺……」
銀時は困惑した表情で二人を見返した。神楽から手を放し、距離をとる。
何が起こったのか銀時自身も分かっていないようであった。身体に残っている喉の渇きと空腹感に、思考が急速に過去へと戻る。
そうだ。確か自分は喉を潤そうと思ったのだ。
神楽の血で。
銀時はゾッとした。本当に自分はどうにかなってしまったらしい。
越えてはいけない壁を越えてしまった気がする。今まで築き上げてきたものが崩れていく音が聞こえた気がする。
恐らく新八の目には、銀時が神楽を襲ってるように見えたかもしれない。いや、それが事実である。
銀時は事の重大さに気付いた。
「悪ぃ、暫く家空けるわ。新八……神楽を頼む」
新八の何か物言いたげに細められた口。それだけを一瞥して銀時は外へと飛び出した。
返答を、聞きたくなかった。