おかえりなさい(完結)

□[中在家長次]中在家君と本
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 客のいない店の奥で、私は古い装丁の本を捲る。
 書いてある文字は読むのも難しいけれど、それでも本を読めることがそのものが嬉しいと思えた。

 夢中になって読んでいると傍らに何かを置かれる音がして、私は顔を上げた。
 お茶を置く手は傷だらけでごつごつと骨ばった男の手だ。

「あ、中在家君、いらっしゃい」

私が挨拶すると、友人は小さな声で返してきた。
 最初は何故そんな風に小さな声なのか不思議だったけど、どうやら顔中にある古傷が痛むせいだと聞いて以来、納得してよく聞けるようになった。

「オススメしてくれたこの本面白いよ。
 …うん、知らないことを知ることができるのが嬉しいの」

私にとってはまだまだ知らないことが多いけど、それを聞くのは迷惑じゃないかと考えてしまうことが多い。
 だから、こんな風に本を読むことで知ることができるのであれば、それは有難いことだ。

「本当は語り物とかのがいいけど、やっぱりないよねー」

 中在家君に首を振られて、私は少し残念な思いながらも笑って返した。

 私と中在家君の出会いは、戸部さんに字の練習をするための本を頼んだことからあった。
 本を持ってくるという戸部さんを待っていた私の前に現れた彼に、私は声もなく驚いてしまった。
 だって、顔中傷だらけの強面な上、話す声もよく聞き取れないほど小さなものなのだ。
 でも、差し出された本を見て、私はすぐにそれが戸部さんの知り合いなのだと気がつけた。

「本…? え、戸部さんはいらっしゃらないんですか?」
「……」
「そう、忙しいんです、か…」

 彼のことよりも戸部さんが来られないことのほうが寂しくて、泣きそうになってうつむいた私に、少しの間をおいて、中在家君は頭を撫でてくれたのだった。

「中在家君は今日は時間ある?」
「……」
「えっとね、これなんだけど」

 本の一部分を指すと、上から中在家君が覗きこんでくる。
 そして、小さな声で読み方を教えてくれる。
 中在家君は私がどんな文字を尋ねても笑わないとわかっているから、私も気軽に質問できる。

 隣りに座った中在家君も持ってきた包みから取り出した本を読み始める。
 そうして、他に客もいない中、二人が頁を繰るだけの時間は不思議と苦痛にはならない。
 それどころか、中在家君がいると来客を教えてくれるため、心置きなく読書に没頭できるので、大助かりだ。

「美緒」

 低い声で名前を呼ばれ、私は本から顔を上げた。
 他に来客があるようではないし、何か用事があるのだろうか、と私は本に捺し花で作ったもらった栞を挟んで、中在家君と向かい合う。

「少し、質問をしてもいいか」
「いいよー」
「知らないことを知るのが好きなのに、何故戸部先生のことを知ろうとしない」

 いつになく長いセリフに私は二重の意味で動揺を隠しきれなかった。

「…中在家君、長文もしゃべれたんだ…」

 視線で咎められ、私は小さくごめんと謝った。

「戸部さんのことなら知ってるよ。
 すごい剣豪で、学校の先生をしているんでしょう?」
「どこで何を」
「んー、剣豪なんだし、そういう学校で剣を教えているんだと思う」
「何故そう思う」

 中在家君に問われたけど、私には曖昧に笑って返すことしかできなかった。
 聞けなかったのは私に勇気がないせいだ。
 知ることは好きだけど、知ってしまうことが時々怖いこともある。

「美緒」
「いつになくおせっかいだね、中在家君」

 知りたくないかといえば、知りたい。
 でも、それを聞いて困る戸部さんを見たくないのもあるし、そんな風に詮索して、嫌われたくないから、聞けないままだ。

 そうか、と何かを納得したように頷いた中在家君は、何故か私の頭を小さい子にするように撫でた。

 戸部さんのことを知りたくないわけじゃない。
 むしろ、聞きたいことでいっぱいだ。
 何故私を拾ったのか、何故ここに置いていくのか、何故何も教えてくれないのか。
 でも、それを聞いて困る戸部さんの顔が浮かぶと、とたんに聞けなくなる。
 困らせたくない、嫌われたくない、と私は怯えてしまう。

「…っ」

 私が俯いて、唇を強くかみしめていると、不意に中在家君の手が触れた。

「血」

 中在家君はあまり強く噛むなと忠告してくれるけど、今の私はこうしないと涙を堪えられない。

 ふるふると頭を振って中在家君の手から逃れようとする私は、次には暗闇に包まれていた。

「今だけ」
「…?」
「誰も来ない」

 だから泣け、と私を抱きしめて隠しながら言う中在家君に反論しようとしたけれど、私は自分の涙に負けてしまった。

「っ、ふぇ…っ」

 どのぐらい泣いていただろうか。
 気がつけば、私は衣装部屋に寝かされていた。
 上掛けの代わりにしてあるのは男物の羽織だ。

 考え込んでいる私の目の上に、ひやりとした冷たい手拭が当てられる。
 それをどけてみれば、中在家君が布団の傍らに座って、私を見ていた。
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