おかえりなさい(完結)

□[潮江文次郎]おつかれさま
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 手元の紙の束を覗きこんで、私はうーんと唸り声をあげた。
 隣に座る人がそれを見て微かに微笑む。

「読めぬー」

 うむむと眉間に皺を寄せて、隣に座る潮江君を見上げると珍しく柔らかい顔で笑っている。
 トレードマークの眉間の皺はどこへやった。

「美緒でもだめか」
「私でもってどういうことよ」
「…………」
「ちょっと、潮江君っ」

 失礼なことをいう潮江君の膝を叩くが、痛がる素振りもない。
 冗談でも痛がれーとつねると、流石にやめろと止められた。

「で、なんなのこれ?」
「うむ、後輩が書いたものなんだが、さっぱりわからなくてな。
 美緒なら読めるんじゃないかと思って持ってきた」

 頼られるのは悪い気分じゃないが、それにしたって「私なら」ってどういう意味だ。
 同じように字が汚いって意味か、こらー。

 今度は脇腹をつついたが、まったくもって手応えがない。
 鍛えているのは知っているが、ちょっとぐらいは痛がってくれないと、やりがいがないじゃないか。

 私はお世辞でも字が上手ではない。
 最初は戸部さんに聞いた山田さんが教えてくれていたが、山田さんも忙しいため、土井さんが見てくれるようになったのだ。
 土井さんの教え方はわかりやすいが、ただの書取にそこまでの時間を割いてもらうのも心苦しく、及第点のもらえている今では月一で宿題にされている日記帳に目を通してもらうぐらいだ。

 本当は、女なのだからそこまで字を知らなくてもいいんだと言われているが、読めたり書けたりしたほうが何かの役に立つだろうと私は自主的に教わっている。

 あ、そろそろユキちゃんたちと交換ノートでもしようかなー。
 ユキちゃんというのはここにくる可愛い可愛いくぁわいい女の子三人組のひとりだ。
 ユキちゃん、おシゲちゃん、トモミちゃんがいると辺りが華やいで、すごく楽しい。
 確か乱太郎たちの二つ上と言っていたし、えーと、時友君たちと同い年、か?

「おい、聞いてるか、美緒?」
「え?」
「……とにかく、ここに数を書いてくれるか」
「数?漢字で?」
「他に何があるんだ?」

 一応聞いてみたけど、アラビア数字は使えないようだ。
 知ってたけどね、土井さんもそう言ってたし、お客さんにもそう言われたし。

(漢数字は苦手なんだよねー)

 なんとか一から十まで書ききって、潮江君に見せたが、まあまあだという評価しかいただけませんでした。
 むむむぅ。

「美緒はこれ以外に数の書き方を知ってるのか」
「うん。
 ……第三協栄丸さんが、海の向こうで使ってるって言ってたやつ」
「どう書くんだ?」
「うん、一がこうで、これが二、これが……」

 潮江君に一から十まで書いてみせると、難しいとの返答が。
 漢数字のほうがよっぽど複雑だってば。

「で、なんでこんなことをしたのかそろそろ教えてくれる?」
「ああ、今度学園で予算会議が開かれるんだがな」

 私の直感が、これは面倒事だと告げていたので、私は潮江君の話の途中で、話題転換を謀る。

「あ、そうだ新作メニューを作ったんだー、食べるよね?」
「……美緒」
「これは潮江君のために考えたメニューだから、是非とも食べて欲しいなぁ」
「それを食べたら、手伝ってくれるか。
 もちろん、出張分の給金は出そう」
「食べてくれたら考える」

 私が作ったのは花蜜入りの饅頭だ。
 下級生の乱太郎、きり丸、しんベエには好評なのだが、学年が上がるに従って、こんな甘いモノは食べられないと言われてしまったので。
 疲れている人には特に食べて欲しいのに、食べてくれない。
 だから、そうもちかけたわけだ。

 ちなみに、食べた潮江君の反応は、咳き込んで吐き出したのが一個、なんとかお茶で流し込んだのが一個でした。
 もったいないなー。

「……なんてものを作ってんだ」
「乱太郎たちには好評なのに、なーんで潮江君たちはダメなのかなぁ」
「甘すぎるっ」
「疲れてる人にはとっても良い薬なんだよ?」
「……わかったわかった。
 だが、俺も食べたんだから、美緒も約束は守れよ」

 わかってないなぁと私は潮江君に笑いかけた。

「考えるとは言ったけど、行くとは言ってないよ」

 そのあと米神をグリグリされましたー。
 女の子になんてことするんだー。
 まあ、女扱いして欲しいわけじゃないけど。

「痛いー」
「自業自得だ。
 ……本当にダメか?」
「うーん、戸部さんの職場に興味はあるけど、やっぱり行けないよ。
 邪魔しちゃ悪いし」
「そうか」

 やけに疲れて見えた潮江君の顔を、私は下から覗きこんだ。

「なんか大変そうだね。
 いつもなら、こんな手に引っ掛からないのに」
「ああ、大変なんだ」
「その予算会議が終わったら、お疲れ会しようか」
「……おつかれ会?」

 なんだそれはと目で問われて、私は小さく苦笑した。

「目の下に隈ができるほど頑張ってるんなら、たまには労ってあげるからさ。
 後輩君たちも連れておいでよ」

 潮江君の目の下をつつくと、やめろと手を掴まれた。
 普段ならその流れで手は離されるのだけど、今はなぜか掴んだまま見つめられている。
 さすがにちょっと照れる。

「労ってくれるのか?」
「ん、サービスしちゃうよー」
「じゃあ……」

 耳元で小さく囁かれて、その吐息に頬が熱くなる。

「それでいいの?」
「ああ」
「……じゃあ、終わったら、いつでも来ていいよ」
「約束、な」
「う、うん、約束」

 差し出された潮江君の太くて大きな小指に自分の小さな荒れた小指を絡ませて、私は少しだけ照れながら笑った。



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