白衣の帝王
□与えられたチャンス
1ページ/1ページ
―――体感温度は、−40℃でした。
なまえは、羊皮紙が喉を通るという不快感にも優る程の恐怖に震えながら、心の中で呟いた。その口調はまるで「トンネルの向こうは、不思議なm(自主規制)」に似ていなくもない。
「(アッバ、父よ……)」
肩をそっと抱いて斜め下を見る瞳の鮮度は、冷凍カジキに似ている。
なまえは唇を可哀想な程に噛んだまま、チラリと隣を見た。その視界に羊皮紙が入った瞬間、再び震え上がる。震えては再びチラリと――そんな行為がかれこれ数分続いている。
そんな無限ループを打ち破るのは、
思いがけないリドルの台詞だった。
「君にもチャンスを与えよう。」
なまえはふと、人間らしい目に戻る。
驚いた表情のままゆっくりと瞳を上げれば、リドルが目を伏せて本を閉じる姿が映った。
リドルは丁度本を読み終えらしく、区切りが良いのか自分に都合の良いタイミングで口を開いたのだ。
しかしなまえには、そんなゴリ押しマイペースなど気にならなかった。それよりも―――
リドルは不意に口角を歪めた後、チラリとなまえを見下ろした。
「3秒だ。」
「へっ?」
あまりにも突拍子のない発言に、なまえは呆けた表情にさえならなかった。風が喉をかすめるような、ただ掠れた声を零す。
「3秒以内に向こうの壁へ手をついて来い。」
リドルは無言で壁へ視線を投じる。
なまえは「何を言い出すのか」とぎこちなくリドルを見上げた後、その視線を追って壁へ目を向けた。
「触る事が出来たなら――この件は、無かった
事にしてあげる」
ふと語尾が和らいだ。
その心地よい筈のテノールは、甘い悪魔の誘惑を彷彿とさせる。
なまえはその内容に
「――……」
ほんの一瞬だけ、目を丸くした。
しかしすぐさま、困惑の表情に戻る。
「向こうの壁って―――」
向こうの壁とは、ここから真っ直ぐ進んだ壁だ。
距離で言うと図書館の端と端。
よって、とてつもなく遠い。
さらに今は夜であるため、暗闇に紛れてその姿さえ見えない。
つまり、
「……不可能じゃないですか!」
「はい、1」
「ぅえっ!?えっ、ちょッ」
無慈悲なカウントダウンに、なまえは反射的に立ち上がる。その際足が椅子の脚に絡み、なまえ諸共派手な音を立てて倒れる。
「2」
それでも上体を起こし、よろめきながら立ち上がる。そして―――
「――3。」
「……ちょっと待って下さい足引っ掛けられるとか聞いてないんですけど」
立ち上がった矢先、再び派手な音を立て前に倒れたなまえは、リドルへと勢い良く顔を上げた。その目には生理的な涙が滲んでいる。
足元に転がっているなまえへリドルは目を細め、まるで観察するような視線を向けた。
「誰も引っ掛けないとは言っていない」
「(平然と言うなよ卑怯者めぇ!!)」
なまえの今にも噛みついてきそうな表情に、リドルは『まるで貧弱な小動物の威嚇のようだ』と唇の端を釣り上げた。喉の奥で「ふふふ」と、低くどこか艶かしい笑い声が微かに漏れる。……愉しそうですね!
「それに……どうせ、間に合わないだろう?」
頬杖を付いて、唇に微笑を浮かべながらサラリと言ったリドルに、なまえの目が絶望的に見開かれる。
「やーっぱり確信犯じゃないですかぁ!!」
もはやチャンスじゃNEEEEEEE!!!
ダンッ、と地面を叩いたなまえに、リドルは鼻で嘲笑する。
「―――でも、」
ポツリと零したリドルに、なまえは顔を上げる。
リドルは前を向いている。
「不可能だと判っていても君は―――諦めず、愚直に走ろうとした。」
「故に……」と続けた時のゆっくりとした瞬きに、蝋燭の明かりが柔らかい。
「最も馬鹿で、最も愚かな奴だ。」
リドルはフと目を伏せた。
唇が描いている小さな弧に、
嘲笑の色は見えない。
「―――悪くないよ。」
そう零したリドルが、ほんの一瞬だけ、小さく息を止めた。
灯火が揺れる様な、柔らかい声。
長い睫の縁取る眼が僅かに見開かれている。
その声が、
まるで自分のものではないように感じられたのだ。
己が発した声である筈なのに、酷く不可解なものに直面した様な
そんな様子で軽く喉元に触れている。
その様子は、誰もが気付かぬほど小さなものだった。
しかし、それでも
強いて言うなら動揺に似ている。
「……愚か者ほど、使い勝手が良いからね。」
そう付け足したリドルは、いつもの様に意地の悪い顔に戻すとなまえを見下ろし、ニヤリと笑った。
なまえはポカンとした表情で、その怪しげな笑みを見詰めた。
「……嬉しく、無いんですけど……」
---------
「(全くもって、嬉しくないんですけど……)―――いたたたた!?」