ムゲン
□動き揺れた心臓
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ホグワーツの湖には、巨大イカなるものが生息しているという。詳しいことは知らないが、数年前ボートから落ちた一年生はその巨大イカに助けられた……とかなんとか。そういえば足を擽られたとかいう話も小耳に挿んだことがある。
「――珍しく真剣そうな顔だね?ムゲン」
その声にハッとして瞬きをする。どうやらリドルさんのご登場らしい。登場して早々、リドル君は私の手元にある羊皮紙を覗き込んだ。私が向かっている机に手を付き、もう片方の手は私の座る椅子の背もたれにまわされているようだ。故に何だか近かった。相変わらず髪サラサラですね美男子め。
……あれ?それにしても最近リドルさん、なんだか馴れ馴れしいような。別に、特別どうとは思わないけれど、少し意外な気もする。それとも今日だけだろうか。
「ふぅん。勉強かい?さらに珍し――」
私の手元を見た瞬間、リドル君は露骨に表情を曇らせた。
「何だいこのみすぼらしくグロテスクで残酷な程に意味不明な落書きは。」
「……」
そこまで言いますかリドルさん。えらく容赦なさ過ぎますね。
「もう一度問う、何だい?これ」
「巨大イカ、だよう……」
確かに私は絵が上手ではないが、流石にショックだ。意に反してしゅんとした口調となる。目がしょぼしょぼする。
触覚は予定よりも太くなり過ぎたけれど、ほら、見て、おめめとか可愛らしく描け―――
「何故イカにまつ毛を描く?信じられないな……」
リ……待ってそこを指摘しないでっ!
「しかし何故、こんな落書きを?」
「見に行くから」
その瞬間バッとリドル君がこちらに顔を向けた。気のせいだろうか彼の頭上に「!?」の文字が見えたのは。しかしお構いなしに、私は続ける。
「ホグワーツの湖には巨大イカがいるらしいから。」
「……まあ、確かにいるが――」
「でも出し惜しみなのかなんなのか、触覚の先っちょや体の一部しか目撃されないみたいでしょ」
『それは出し惜しみなどではなく、単に巨大だからだろう』リドルはそんな事を思ったが、ムゲンについて行けないのか口が上手く動かなかった。
「だから見に行こうと思って」
「は、」
そこで私は「よっこいしょ」と立ち上がる。
「今から言ってくる。」
じゃ、と立ち去ろうとした刹那―――
「駄目」
どういう訳か、腕を掴まれた。
「……え?」と振り返れば、リドル君と目が合った。
「駄目、って?」
「君は頭がどうかしている」
え、
え?
「なんで」
するとリドル君は、ため息を吐いた。
……何で呆れられているのだろう。
「時期を考えてみなよ。長袖で出歩くような季節に、湖で遊泳するのはただの偶者だ」
「え」
「それに巨大イカの全貌を見ようだなんて、いったい何メートル潜る必要があると思っているのかい?」
リドル君は呆れるように目を細め、思いっきり見下ろしてきた。何だか蔑んでいるようにも見える。
「でも、」
私はクイと、首を傾げた。
リドル君は片眉を上げながら、私を見下ろす。
「でも、別にリドル君には関係ないよね」
その瞬間、リドルの目が見開いた。
その目に映るのは、ぼんやりと首を傾げるムゲンの姿。
その表情に棘は無く、ただ、当たり前の疑問を当たり前に口にしたような―――
リドルは一瞬、
胸に違和感を覚えた。
そして
損な動きを見せる心臓へ、不可解そうに一瞬眉を寄せる。
リドルは口を開いたが、肺が圧迫されたかのように硬直し
その咽からは何も発せられず
声どころか空気さえも―――
そんな動きを見せるリドルに、
ムゲンは寸分も気付かない。
リドルの瞳に映るのは、踵を反し去る
ムゲンの後ろ姿。
ムゲンの纏う風につられるかの如く
僅かに前方へ揺れ動いた上半身。
リドルは再び心臓に違和感を覚え
微かに眉根を寄せながら
その左胸を見下ろした。