僕はたった一度、過ちを犯した。常に正しいと思っていた自身の言動、行動、思考。それに溺れ、己の過ちに気付くことが出来なかった。過ちに気付けたのは、既に全てが終着した後だった。その時にはもう、やり直すことも、無かったことにすることも、出来なくなってしまっていた。







僕は初めて後悔した。だけど、後悔したってもう遅い。彼は戻ってこない。僕が自分で手放したんだ、当然だろう。手放したって何も変わらない…なんて過信していた自分が、今、ひどく腹ただしかった。










愛していたんだ、心の底から、本当に。この気持ちに嘘は無い。僕が初めて抱いた恋愛感情。初めてで、最初は戸惑いもあった。だけど、それを上回る愛しさを、僕は僕なりに彼に伝えてきたつもりだった。





少し癖のある鳶色の髪も、同色の瞳も、柔らかな声も、何もかもを愛していた。僕とは何もかもが違う彼。凡人を絵に描いたような彼だったけれど、僕は彼の全てにどうしようもなく、惹かれた。





「赤ちんがおれら以外に執着するなんて、らしくないし」





そう指摘してきたのは、中学時代僕に一番忠実な犬だった敦だった。敦の言葉は尤もだと思った。確かにこんなの、僕らしくない。でも、今まで築いてきたプライドや外聞を全て取っ払ってしまえる程、僕は彼に執着していた。









目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる彼の笑顔。柔らかくて屈託の無いその微笑みは、いつも僕に安心感を与えてくれた。彼の側に居ること。それが僕が最も安息の心地を噛み締められる時だった。――なのに僕は、それをあまりにあっさりと、捨て去ってしまった。




あの笑顔を思い出すと、今すぐにでも抱き締めたい衝動に駆られる。でも、彼はもう僕の側には居ない。叶わない衝動だと理解していても、どうしても彼の温もりを求め、切望してしまう。僕より少しだけ小さくて、僕より少し華奢で、僕より大分頼りない背を、今すぐにでも掻き抱いてしまいたいのに。









だけど――僕にはもう、その資格すら与えられないんだろう。









「大嫌いだよ、赤司なんて」






恥ずかしがり屋で天の邪鬼だった彼は、一度だって僕に「好き」や「愛してる」を言ってくれなかった。唯一紡がれる「大嫌い」が、彼の裏返しの愛情表現であることを理解していても、僕はそれがどうしても不満だった。





彼が言わない分、僕が彼の代わりに「好き」「大好き」「愛してる」と、それこそ耳に胼胝が出来る程囁いてあげた。その度に恥ずかしがり屋の彼は頬を赤く染めて、僕とは全く真逆の愛情表現を口にした。それが僕らの想いの確かめ合いだった。不満はあったけれど、裏返しの愛情表現を口にしてもらえる分、まだマシだと僕は割り切っていた。





「赤司はなんで、オレが好きなの?」
「理由なんて無いさ。降だから好きになった。降だから僕は愛している。それ以上の理由がいるかい?」
「…恥ずかしい奴」
「君だって、そんな僕が好きなんだろ?」
「うるさいな…大嫌いだよ、お前なんか」






言いながら僕にキスをしてくるのが、彼のお決まりのパターンだった。彼は、想いを素直に口に出さない分、行動で示すタイプだったらしい。彼から与えられる優しい口付け。口にするよりも行動に移す方が恥ずかしいような気もするが、彼はそこまで恥ずかしがる素振りなんて見せず、裏腹の愛情と確かな愛情を、いつも同時に僕に与えてくれた。僕もそれに行動で返して、時折更なる言葉を与え、そして時折身体を重ねて一つになっては、互いの想いの深さを確かめ合った。












僕の「好き」と彼の「好き」は同じ重さを伴っているのか。それを確かめるには、専用の秤が必要だ。だけどそんな秤なんて存在しない現状では、言葉と態度と行動で重さを読むしかない。そして気付く。僕と彼の想いは、同じ重さを伴っていないと。確実に、僕の方が彼より数段重い愛情を孕んでいた。






今まで全てを思い通りに操ってきたツケが回ってきたんだろう。僕が彼に向ける愛情は、純粋さを煙らせてどす黒い支配欲を全面に押し出していた。






彼の目に映るのは僕だけであってほしかったし、彼の手が触れるのは僕だけであってほしかったし、彼の笑顔が向けられるのは僕だけであってほしかった。強すぎる束縛であるのは理解していても、抑制出来ないのが欲というものだ。遠距離恋愛である分、その気持ちはとても強く、彼を雁字搦めに縛り付けていた。










だけど僕は、徐々にそれが当たり前のことなんだと思い始めていた。というのも、彼はとても優しかったのだ。僕の強い支配欲も束縛も、あの柔和な笑顔で受け入れてくれて、相変わらず裏返しではあるが想いを言葉にして、それに行動を付加して僕に与えてくれたから。



だから、僕は自分のしたいように振る舞ったし、彼の言葉もだんだん重要視しなくなっていった。僕が彼を好きでいる限り、彼は離れていかないなんて勝手な勘違いをして――彼の気持ちを、いつからか置き去りにしてしまっていたんだ。






彼が僕を好きでいるのは当たり前だと勝手に決めつけて過信して、いつの間にか、僕から彼に想いを告げることも極端に減っていった。告げなくても伝わっていると、誤認していたんだ。彼なら伝えずとも理解していると、過剰な期待を向けていたんだ。











――決別の時は、あまりに唐突にやってきた。










その日は久しぶりの逢瀬だった。僕がいつものように東京に訪れ、予め取っていたホテルの一室に彼を呼びつけた。時間通りにやってきた彼を、僕は久しぶりの会話もそこそこに早々にベッドに押し倒した。彼は抵抗しなかった。彼がどこか浮かない表情をしているのに、僕は気付いていた。でも僕は訳を聞かなかった。気に止めることすらしなかった。そんなことよりも、早く彼の身体を味わいたくて仕方なかったんだ。





「…赤司」





服を脱がせ、愛撫を施していた手を、彼が掴んで止めた。訝しんで視線を上げれば、彼は何故か泣きそうな顔をしていた。僕の手を掴む手も、ぎこちなく震えていた。





「どうした?」
「…赤司は、なんでオレに執着するの」





問いの意味が分からず、僕は静かに眉を顰める。





「それを君に話したところで、何かが変わるのか?」
「っ…なぁ、赤司…本当にお前は、オレが好きなのかよ…」
「好きだよ。だからこうしてわざわざ東京まで来て、君を抱こうとしてるんじゃないか」
「嘘だ…そんなの、嘘なんだろ…?」





鳶色の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ始めた。その涙は彼の滑らかな頬を滑り落ち、ベッドシーツに染みを作っていく。彼の手から力が抜け、解放された僕の手は力無く彼の胸に添えられるばかりだった。






意味が分からない。どうして彼は泣く? どうして僕の想いを否定する? どうして嘘だと決め付ける?





「降?」
「とっくに愛想尽かしてるくせに…そうやって空っぽの言葉だけやってれば、オレが満足してるって思い込んでるくせに……オレのことなんか、もう好きじゃないくせにっ…!」






泣きじゃくりながら彼が叫ぶのは、全く理解しがたい内容だった。いつ僕が愛想を尽かした? 僕が与える言葉が空虚だって? 僕が――もう、彼を好きじゃないだと?






ふざけたことを――僕は自分の頭に血が上ったのが分かった。無意識に振り上げていた手は、無意識のままに彼の頬に命中していた。バチンッ、という乾いた音と振動が手の平に伝わる。避けもせず僕の平手打ちを甘受した彼は、呆然と目を見開いていた。涙はどうやら、今の衝撃で引っ込んだらしい。






「…君にだけは、そんなこと言われたくないね」






吐き出された声は、自分でも分かるぐらいに冷めていて、棘を含んだものだった。





「僕への想いを素直に口にしない君にだけは、そんな生意気なこと言われたくないよ」
「っ…!」
 





肩を震わせ、彼は息を詰めた。図星を突かれて動揺しているらしい。未だ涙で潤むその瞳は、弱々しく僕を映していた。







脆くなり始めている彼の心に追い討ちをかけるように、僕は更なる言葉を紡ぐ。――この時の僕はもう、冷静さを完全に欠いていた。頭に上った血は、簡単には引いてくれなかったんだ。






「君こそ、本当は僕のこと嫌いなんじゃないのかい? そうなんだろ? 一度だって僕に好きとか愛してるとか、言ってくれたことないしね? 僕が怖いから? だから今まで逆らえなくて、ずっとズルズルと僕に付き合ってきたってところかい?」
「ち、違っ――」
「違うなら、」





彼の頬を固定し、僕を真っ直ぐに見るように仕向ける。怯えた瞳に、僕の顔がしっかりと映ってる。彼の瞳に映り込んだ僕は、ひどく冷めた表情をしていた。


涙の跡を指でなぞりながら、僕は言った。





「今すぐに、言葉にしてくれないかな。降が本当に僕のこと好きでいてくれてるなら…簡単なこと、だよね?」
「…ぁ……」





か細い吐息を漏らし、彼は身を固くした。その顔は、徐々に赤くなっていく。恥ずかしがり屋で天の邪鬼な彼。今まで素直に僕に想いを伝えてこなかった彼。今まで僕も無理に言葉にするよう強いたことは無かった。だから、これが初めての要求だった。






さすがにこの状況じゃあ、いつものような裏返しの表現が通じるとは彼も思わないだろう。そこまで子供でもあるまいし…あんなもので誤魔化せる状況じゃないことぐらい、感じ取ってもらわないと困る。僕の愛情が偽物ではないと実感したいなら、少しの羞恥ぐらい簡単に捨てられる――そうだろう?






「……き…」







思えば――それすらも、過剰な期待だったんだろう。なんでも僕の思い通りに事が進むと信じ切って、そうならなければならないと決め付けて、急かして追い詰めて…。




――だから。







「………だいきらい、だっ…」







涙混じりのその言葉が…とても聞き慣れたその言葉が、僕は、受け入れられなかったんだ。





この状況でも…彼は、素直に僕に感情を向けてくれることはなかった。僕への想いを明確にするよりも、自分の体裁を守ることを優先した。――僕は、彼に愛されていなかったのだ。





「………そう」





返した言葉はあまりに素っ気なく、冷め切ったもの。僕の返答にビクリと体を震わせた彼は、まるで取り繕おうとしているかのように身を起こし、僕に唇を寄せてきた。






いつものパターンだ。裏返しの言葉と、素直な行動。いつも通り、素直になれない彼なりの精一杯の愛情表現だと、常套手段だと、頭では分かっていた。…だけど僕の心は、それを受け入れられなかった。





「寄るな」
「ぃっ…!」






もう一発、平手打ちを彼にお見舞いした。不安定な格好でいた彼はその衝撃で容易くバランスを崩し、ベッドにその身を投げ出した。



彼は僕を見上げる。その瞳は驚愕の色で染まっている。僕は彼を見下げる。僕の心は、完全に凍り付いていた。





「君の気持ちはよく分かったよ」
「あか、し…」
「どうやら、君を愛していたのは僕だけだったみたいだね」







その『大嫌い』が正規の意味じゃないことぐらい、本当は分かっていたくせに。だけど僕は、その事実に蓋をした。そうやって見ないふりをして、気付かないふりをして、彼をどんどんと突き放していった。





「そこまで嫌われていたのに、気付かなかった僕は愚かだったな。…僕への愛情が尽きているならしょうがない。だったら別れようか。無理に僕に付き合わせるのは可哀想だしね」
「っ!! 待って、赤司…!!」





吐き捨て、距離を取ろうとする僕の腕に彼が必死にしがみついてきた。再び込み上げてきたらしい涙で瞳を濡らして、縋るように僕を見つめていた。気のせいなんかではなく、その手は微かに震えていた。





普段の僕なら、彼にこんなことをされれば心が揺らいでしまっていたものだが…生憎この時の僕は、そんな優しさなんて微塵も無かった。同情心も、擁護心も、何も沸いてこなかった。





「放せ」
「赤司、聞いてよ…!」
「聞こえなかったのか? 放せ、と言っている」
「っぅ…赤司…なぁ、聞いて…」
「うるさい。…放せ」





涙を零しながら懇願する彼の手を、僕はあたかもゴミでも捨てるかのように掴んで放した。そのまま彼に背を向け、先程脱ぎ捨てた服を拾い上げて身形を整える。背後からは、彼の啜り泣きが聞こえてきていた。






本音を語っておくと、僕は彼と別れるつもりなんて更々無かった。なのにこうも突き放すような態度を取ったのは、これだけ冷たく振る舞えば、たとえ本心からではなくても素直な態度を取るだろうと、勝手な確信を抱いていたからだ。加えて、落ち度は彼にあるのだから、僕が救いの手を差し伸べてやる筋合いは無い…と、そう決め付けていた節もある。








だが…僕の計算は狂っていた。素直にならせるために突き放したのは間違いで、救いの手を差し伸べなかったのは過ちだった。彼の裏返しの愛情を拒絶したのは、僕の最大の罪だった。










突然、背後から肩を掴まれた。誰に、なんて分かり切ってる。ここには僕と彼しか居ない。そのまま肩を引かれ、体が反転する。振り返った先、そこにはみっともない泣き顔を晒した彼が居て。反転した勢いの余韻がまだ残っている中で、僕は彼から手痛い平手打ちを食らった。僕が彼にしたよりも、遥かに重い平手打ちだった。




バチンッ、と大きな乾いた音。鼓膜が揺さぶられ、僅かに視界がブレる。じわじわと広がる熱さと痛み。久し振りの痛みに、僕は徐々に冷静さを取り戻していった。しかしその冷静さも、彼が僕に手を上げたという事実に対する驚きで崩れていったのだが。






痛む頬を押さえながら、彼に視線をやる。振り切った手はそのままに、彼はキツく唇を噛んで嗚咽を殺し、涙で濡れそぼった瞳で真っ直ぐ僕を見ていた。


そして――





「っ……だいすきだったよ……さよならっ…!!」





涙で掠れた声で、しかし彼はハッキリそう言った。乱れた着衣を整えるのもそこそこに、彼は一度も振り返ることなく部屋から走り出て行ってしまった。僕はその頼りない背を目で追いながらも、追い掛けることはしなかった。…いや、出来なかったんだ。追い掛けたいという意志はあったのに、そんな僕の意志に反し、両足は床に縫い付けられてしまったかのようにピクリとも動かなかったんだ。







――あの『大好き』は、一体どちらの意味だったんだろう。言葉のままの意味だったのか、天の邪鬼な彼らしく、逆の意味で発されたものだったのか。どちらとも取れるそれが、彼からの最後の言葉だった。




嘘だったのか、真実だったのか。分からないまま、僕と彼の関係は終着した。故意にあけた距離は、縮めることを許されないままに致命的な落とし穴となった。









あの時追い掛けることが出来ていれば、未来は違っていたのだろうか。あんな風に突き放さなかったら、彼は今も僕の隣に居てくれたのだろうか。僕が冷静になって、癇癪を起こした彼をしっかり宥めてやることが出来たなら、彼を失わずに済んだんだろうか。








たった一言、素直で真っ直ぐな『好き』が聞きたかっただけだった。だけど、それはもう叶わないものとなってしまった。僕が間違っていた。思い上がりが生んだ気持ちの擦れ違い。いつの間にか噛み合わなくなっていた僕らの歯車。歪に捻れた糸は、捻れすぎて、切れてしまった。繋ぎ直すことが出来ない程に、ほつれてしまった。










彼に叩かれた頬は、あれから随分と経った今でも時折ズキズキと痛む。焼き付いた痛みの記憶。彼の最後の真摯な思い。それが未だに僕を苛む。






『大嫌いだよ、お前なんか』
『だいすきだったよ……さよならっ…!!』






今も木霊する彼の声。思い出して感傷的になってしまうのは、彼を心から愛していたという紛れもない事実。だが、一時の感情の乱れが災いし、僕は独りになった。発端が彼の筋違いな慟哭だったとは言え、それにムキになってしまった僕にも責任があると…今は、心の底から反省していた。






彼に会いたかった。だけど、僕には会いに行く資格なんて無い。僕が彼を突き放し、傷付け、泣かせてしまったのに、今更会いに行って何を言えば良いというのか。「好きだ」と言えば良いのか? 「愛してる」と言えば良いのか? たったそれだけで、彼に齎した傷が全て癒されるとでも? …それこそ傲慢だ。僕が犯した過ちは、そんな陳腐な言葉で贖える程軽くは無い。






なら、今の僕に、何が出来るだろう。何が伝えられるだろう。何が一番の罪滅ぼしになるのだろう。







「………」





あぁ――僕は無力だ。無意味だ。無駄だ。無能だ。愛した彼のために、何もしてやれることがないなんて…。








せめて、これだけは…この言葉だけは、伝えたかった。直接彼に伝えたかった。僕の最後の言葉。最後の嘘だ。






「愛していたよ…誰よりも、愛していた――」







窓の外は雨模様。僕の頬に伝う雫は、この降りしきる雨の滴が僕の瞳に入り込んでしまったものだ。決して涙なんかではない。僕は自分にそう言い聞かせ、その雫を乱暴に拭った。

























――――
Nobady can rewind time(誰も時を巻き戻せはしない)
the GazettE/THE SUCIDIE CIRCUS

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ