☆五月

□五月五日(水)
1ページ/2ページ

 リズミカルな音楽に混じり、絶叫や笑い声、そして何処かで子供の泣き声が起こった。辺りは人で溢れ返っている。敏夫が欠伸を噛み殺すと、着ぐるみの兎が赤い風船を差し出した。

「ありがとっ」

 直ぐ横を歩いていた涼太はにぃっと笑って、嬉しそうに言った。風船が飛ばないようにと、兎に紐を腕に結んで貰った涼太はこれ以上ないくらいに機嫌が良さそうだった。

 本日は五月五日のこどもの日。小学生以下は半額というその日に敏夫と涼太は遊園地にやって来ていた。

 話は数日前に遡る。夕食が終わった後、涼太は敏夫の部屋を訪ねてきた。

 入ってきた涼太は何処か神妙な様子でチラシを差し出した。チラシでは観覧車やジェットコースターといった乗り物とイメージキャラクターの動物達が楽しそうに手を振っていた。

 その下にこどもの日限定の値引きを見た時点で、敏夫は察しがついていた。

「あのな。此処行きてぇんだけど…一緒に行ける?」

 敏夫は涼太の祖母雨谷が祖父が亡くなって以来は何処にも連れて行く事はなかったと言っていた事を思い出した。育ち盛りの子供を育て、更に仕事で疲れている雨谷に対して気を使っていたらしい。

 じっと不安げに見つめる涼太の目には不安と期待が混じっている。

「いいぞ」

 敏夫が何でもない様に答えると、ばあっと涼太は明るい顔を上げた。

「いいの?」

「五日だろ?病院も休みだし」

 感極まってか、涼太は敏夫に飛び付いた。ぎゅうっと腹の辺りに顔を埋められ、敏夫は目を丸くした。

 直ぐ顔を上げた涼太はにぃっと笑って、「ありがと敏夫さんっ」と言って、部屋を出て行った。

 そして敏夫は結婚以来初めてとなる遊園地に来ていた。こどもの日という事もあり、混んでいたが、余り待たずに乗り物には乗れた。何故か決まって涼太があれに乗りたいと走って行くと、空いており、並んだ途端に後ろに行列が出来る。空いているのを見通しているのか、単に幸運なのかは分からないが、予想よりも多くの乗り物に連れ回された敏夫は疲労のピークにいた。

 ふわふわと視野に入ったり出たりを繰り返す赤い風船は風に煽られ、空へと逃げ出そうとした。咄嗟に敏夫はその紐を掴む。

「折角貰ったんだから、ちゃんと持ってろ」

 そう言って、風船を差し出した相手は見知らぬ少女だった。

 敏夫は目を丸くして固まると、その少女の母親と見られる女は「ありがとうございます」を言い、少女にもお礼を言わせる。

「いいえ、此方こそすみません。息子と間違えてしまって…」

 そう言いつつ、辺りを見渡すが、人混みの中に浮かぶ赤い風船は途方もないくらい沢山あった。

「まあ?息子さん?私達は少し前から貴方の横を歩いていましたけど、ちょっと気が付きませんでした」

「分かりました。ありがとうございます」

 女にお礼を言い、敏夫は人が疎らな道の端に来て、再度涼太を探すが、やはり見当たらない。

「何時からいなかったんだ…」

 敏夫は風船だけに気を取られ、涼太に気を配らなかった事に後悔した。

ピンポンパンポーン

 高らかに特有のフレーズを流したスピーカーに皆耳を欹てる。そして柔らかく聞き取り易い声で『迷子のお知らせです』と続けた。

『迷子のお知らせです。ススム君とおっしゃられる赤いダイレンジャーのTシャツにジーンズをお召しの男のお子様がいらっしゃっております。お心当たりの方はサービスカウンターまでおいで下さい』

 違う子供であったが、涼太も自分から迷子と申し出る可能性が高いと、敏夫は判断した。サービスカウンターに向かおうとしたその時、また放送が流れた。

『迷子のお知らせです。溝辺町外場よりお越しの尾崎敏夫さん、尾崎敏夫さん。雨谷涼太君がお待ちです。サービスカウンターまでおいで下さい…え?』

 最後の間の抜けた声に思わず誰もがスピーカーを振り返った。

『失礼しました。リュウレンジャーのススム君とテンマレンジャーの涼太君がお待ちです。ススム君のお父様とお母様、涼太君のお父様。サービスカウンターまでおいで下さい』

 笑いを堪えている事が明らかな放送はピンポンパンポーン…という音で締め括られた。放送を聞いて、敏夫は額を抑えて深い溜息を吐いた。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ