佐伯

□キミに逢うまでは
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耳に響く肉を打つ音。
それから少し遅れてやってくる頬の熱さ。

ああ、殴られたんだ…。
そう思いながら、俺は目の前の女を無言で見つめた。
女は目に涙を浮かべ、俺を睨みつけている。

「どうして何も言わないの?」
女が言った。

「…何を、言って欲しいの?」
そう俺が返すと、女はますます怒りのこもった目で俺を睨んだ。

「あなたってサイテーね!さよなら!」
女は踵を返すと、駅の構内へ消えて行った。

…思い切りやってくれたな。
俺は殴られた頬に手の甲を当てた。
熱い頬にひんやりとした感触が気持ちいい。

「バイバイ、ハニー」

俺は呟くと、夕方の賑わう商店街を歩き始めた。
やっぱり夕焼けは嫌いだ。




「佐伯、どうしちゃったの、それ?」

LIのカウンターに掛けると、マスターであるクニさんは俺の頬にすぐに気付いた。

「殴られた」
「また女か…ホラよ」

クニさんは氷を入れたビニール袋におしぼりを巻いたものを渡してくれた。

「どうしたら女の人に殴られるんだ?」

先客である崇生が不思議そうに尋ねてくる。
今日は顧客のところへ行った後、直帰でここに寄ったらしい。
相変わらず流行ってないこの店の客は崇生と俺の二人きりだった。

「私のこと愛してる?って言うから、素直に答えただけだよ」
「なんて?」
「愛してない、って」

崇生は呆れたように溜息をついた。

「そりゃ殴られても仕方ないな…」
「嘘はついてないよ?」
「そういう問題じゃないだろ。だったらどうして付き合ったんだ?」
「…付き合うってなんだろうね」
「…俺の手には負えない。クニさん、バトンタッチー」

もう一度溜息をついた崇生はそう言ってビールを呷った。

「ほいほい」

そう言いながらクニさんは俺の前にグラスワインを置いた。

「佐伯はさ、その子のこと、好きじゃなかったの?」
「好きだったよ」
「どういう風に?」
「たまに会って食事したり、映画観たり…楽しかったよ」
「んで?」
「それだけだよ」
「こうさ、その子が愛しいなぁとか、ずっと一緒にいたいとかさ、そういうのはないわけ?」
「…別に。お互いの生活もあるし、なんか重くない?そういうのって」
「おいおい、そんなんで大丈夫かぁ?お前に頼まれてた件、なんとかなりそうなのにさ」
「え?あの件が?誰が引き受けてくれるの?」

あの件とは、今度、結婚生活がテーマの映画のシナリオを書くことになった俺が、クニさんの広い人脈で結婚相手になってくれそうな女性の紹介を依頼していたことだ。
結婚といっても、実際に結婚するわけではない。
一緒の家に住んで夫婦ごっこをする…言わば偽装結婚だ。
自分の知り合いに頼むと居座られたり、本気になられても困るので、割り切ってやってくれる女性を探してもらっていたのだ。

「俺の姪っ子」

クニさんはニコニコ笑いながら言った。

「姪っ子?クニさん、姪なんかいるの?」
「失礼な。俺だって親族くらいいるっつーの。俺に似て結構かわいいぞ。気は強いけど」
「あ、でも、クニさんの姪なら若いんじゃないの?」

お子様の相手はしたくないし、割り切った関係を守れないと困る。

「この間、大学を出たばっかりなんだけどさ、田舎じゃ就職先がなくて、こっちに出てくることになったんだ。お前の依頼を完遂したら就職を紹介してやるって条件にするつもりだ」

それならギブ&テイク、お互いに利がある。
後腐れもなさそうだ。

「えー、佐伯ばっかりずるいな。俺も頼んでたのに…」

崇生が不服そうに言う。

「いや、別に佐伯に決定したわけじゃないから。一応、姪っ子にも選ぶ権利があるからな。なんせ一緒に暮さないといけないんだし」
「確かに」

クニさんの言葉に崇生は納得したように頷いた。

俺が選ばれる可能性も他の奴らが選ばれる可能性も5分の1。
誰が選ばれても、面白いことになりそうだ。



その時の俺は、その後に待ちうける運命のことなど全く知る由もなかったのだった。


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