連載

□月光10
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じっと動かない譜迩の瞳から雫が落ちる。
深紅の薔薇を差し出したまま、琉稀はその様子を見ている事しかできなかった。

どうして泣くのかなど愚問だ。
きっと琉稀があんなことをしてしまったから、顔も見たくなかったに違いない。
思い出したくもない記憶が琉稀という存在とともにここにある事。それが譜迩の精神を圧迫しているのだろう。

泣かないでほしい、などと言える筈もなかった。
琉稀は差し出していた手から力を抜く。
重力に従った手には、所在のない薔薇の花が握られたままだ。
琉稀が静かに一歩、譜迩に近付く。

見開かれた瞳は何を見つめているのだろう。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を止めたくて、琉稀は指先を譜迩の頬へと伸ばした。
触れた瞬間、弾かれた様に譜迩が体を引く。

「……っ」

その反応に、琉稀の心が軋んだ。

「ごめんな」

そう言うのが、精いっぱいだった。

何度も何度も考えた筈だ。
絶対こうなるだろうことも予想していた筈だ。
それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろうか。
予想していた筈なのに―…。
譜迩の涙を止める方法が、自分にはわからない。








忘れていたなんて、自分はどうかしている。
こんなに綺麗な銀髪を。
こんなに綺麗な眼の色を。
どうして忘れてしまっていたのだろうか。
初めて見た冷たい目。あれはあの日出会った少年と同じ温度だった。
誰も寄せつけようとしない、手負いの獣の様な眼。
その中に見える何かを求める様な色。

どうして、あの時に思い出さなかったのだろうか!


「お、俺は…っ」

譜迩は込み上げてくる嗚咽を噛み殺しながら琉稀の瞳を見返した。

「…ッごめん、俺…お、俺…ッ」

言葉が続かない。
ルキ、という少年がどういうめにあったのか。
それは子供の時分にはわからなかった。
彼は花を摘んでは両親の墓に供えに行くふりをしてその墓石に何か怒鳴っていた。

『プリーストなんか、大嫌いだ!』

彼が泣きながら怒鳴るのを、居た堪れない気持ちで聞いていた子供の自分。
信じられるものが何一つなかった、ルキ、という少年。
そのルキが別れ際に譜迩に渡してくれたのが、机に飾られた一つ目の薔薇だ。

『また、一緒に遊ぼうね! 絶対だよ!』

去ってゆく背中に向かって、譜迩はそう叫んだ。
叫んだのに―…。

忘れてはいない。
けれど、あまりにも情けなさすぎるではないか。
あの後から自分にも琉稀にも様々な出会いがあった筈だ。
時の流れの中で人は何かをひとつずつ忘れてゆくものだと言えばそうかもしれない。
けれど自分は、あの少年とこのアサシンを重ねる事が出来なかったのだ。

「…謝るのは、俺の方だから」

琉稀が言う。
違うんだ、という声が喉につっかえて出てこない。

「お前に、酷いことした。ホントに、悪かったと思ってる」

どの面下げてこんな事を言うんだろうと琉稀は思った。
こんな言葉しか出てこない自分の不甲斐無さに刹那の言葉が蘇ってくる。
こんなのでマシな人間になれるか、と心の中で罵ってやった。
譜迩は琉稀の言葉を否定したかったが、けれどもそれは込み上げてくる嗚咽が邪魔して出てこない。

「…っ、ちが…っう」

激しく頭を振って、譜迩は震える喉で声を上げた。

「俺、が…ッ酷い…ッ」

ついに、譜迩は両手で顔を覆ってしまった。
床に膝を付き、声を上げて泣きじゃくる。
琉稀はその様子に驚いて屈みこむと、譜迩の肩を掴んだ。

「待てよ。お前、何言ってんだ…?」

不明瞭な言葉では、譜迩が何を言おうとしているのか琉稀にはわからない。
しかし、譜迩の様子で譜迩が何かを思い出してくれたという事は分った。

「…泣くなよ…」

子供の様に嗚咽を漏らして泣く譜迩が、どうしたら泣きやんでくれるのだろうか。
琉稀はどうする事も出来ずに唇を噛んだ。
嗚咽に合わせて上下に跳ねる肩を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
耳元に唇を押し当てて、琉稀は譜迩にしか聞こえない声でこう言った。

「…お前が、好きだ…」

抱く腕に、力を込める。
ぴたり、と譜迩の体の震えが止まった。

「どうしても、嫌いになれなかった。お前も、プリーストも…」
「……!」

そう言って琉稀は譜迩の顔を覗きこむ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔が驚いた様に琉稀を見上げていた。

「…お前にもう一回会えてよかった」

譜迩の滲んだ視界に、泣きそうな顔で笑う琉稀の顔が映る。
琉稀は譜迩の涙の跡が幾筋も付いた顔を両の指で拭うと、そっと体を離した。

「…お前には泣いてる顔は似合わないな。やっぱ、あん時みたいに笑ってた方がいいよ」

そう言って琉稀は立ち上がり、先程自分が開けた窓の方へと脚を向ける。

「お前に会えたから、俺も笑えるようになったし…。なのに俺、酷い事しかしてないな」

背中を向けたまま琉稀が言った。
譜迩は茫然とした様子でその姿を見ている事しかできない。
このまま、琉稀はまた何処かへ行ってしまうのだろうか。






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