+chaos+

□Distance
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『気付いたら、腕の中で死んでいた』

そう言った沙稀の表情を思い出す。
余程ショックだったのかもしれない。
それは朔夜には想像しかできない事態で、どんなものかはっきりとはわからない。
二度と、そんな目には遭いたくない。
そう言った沙稀の心情は、朔夜には想像の範囲でしかわからなかった。
当の本人が言うのだから、そうなのだろう。その程度でしかない。
冷たい人間だと思われるだろうか。
朔夜には、どれが正解なのかわからない。
沙稀のために近寄らないでいるのがいいのか、それとも、沙稀のために血を与えるのがいいのか―…。

―…俺はダメな人間だな…。

どちらも沙稀の事を思っての選択なのに、選ぶことができない。
関わらないのが最善で、一番の悪だと思った。
疲れたからもうお前の相手なんかやってられないと、投げ出すことは簡単だ。
今までもそうやって投げ捨ててきた過去がある。今更沙稀一人を救い出すのに自分が尽力する必要があるだろうか。
覚悟を決めたとして。朔夜がそうやって沙稀を諭して、沙稀の考え方を変える事はそれだけのリスクがある。

―俺がそう言ったところで、沙稀ちゃんが変わるかどうかはわからないけど…。

この先彼がずっとその咎を背負って生きていくのは、間違っていると思っている。

―…そこまで、俺がやっていいのか…

それは即ち、沙稀の人生に朔夜が脚を突っ込むことにほかならない。
その事が、自分のデメリットになるとは思わないが、何時までもあのままでいていいとも思えなかった。
弱味を見せたくないのは、朔夜も同じだったから。

「マスター、もう一杯」

朔夜は氷だけになったグラスを差し出してそう言った。




* * *




あれからどれくらい時間が経ったのだろう。
部屋に置かれていた水差しにはもう一滴の水も残っていない。
沙稀はグラスに残った最後の水を一気に煽る。

息が苦しい。
どれだけ水を飲んだところで、ちっとも喉の渇きは収まらなかった。
しんと静まり返った室内で、自分の荒い呼吸だけが耳につく。
沙稀の腕には幾つもの切り傷があった。
自分で、自分の腕を切る。溢れた血を舌で舐め取ることを何度繰り返したかもう覚えていない。
けれども常人と違う沙稀の体は、直ぐにその傷口を塞いでしまった。
いくら自分の血を飲んだところでこの乾きを収める事はできないと知っているのに、そうすることしかできない。
朔夜が席を外してくれたことは幸いだった。
彼が自分のことを考えてそうしてくれていると思うと居た堪れない気持ちにはなったが、それ以上に自分の質が許せなかった。
欲望に駆られて、なりふり構わず噛み付いてしまいたくなる。
この衝動を収める方法は一つしかない。
もっと、深く自分を傷つければ、事足りる。
けれども、血を飲むという行為さえしたくない沙稀は酷く葛藤していた。
いつも、極限まで耐えれば収まるのではないだろうかと淡い期待をしていた。
しかしそれも、結局無駄に終わるのだ。
もう、頭がおかしくなりそうだ。
沙稀は床の上に投げてあったナイフを拾い上げる。
朔夜が帰ってくる前に―…



「…そんなに、欲しいの?」

腕にナイフを当てようとした瞬間、そう言われて自分でも滑稽なほど驚いた。
ナイフを握り締めた腕を掴まれて、沙稀は弾かれたように朔夜を見上げる。
血の色に染まった瞳が、朔夜を捉えた。

「いつから…」

いつからそこにいのか、全く気付かなかった。
硬直したままでいる沙稀の手から、朔夜がナイフを奪い取る。

「気付かなかったでしょ?」

気配を消すのは、得意なんだよ。
朔夜はそう言って、口元だけで笑った。
同じ職業にすら気取られずに近づく朔夜に、一瞬背筋が冷たくなる。
否、それほどまでに沙稀は我を失っていたのだ。

「欲しいんだろ? 素直に言えばいいよ」

やめろ、と口にする前に、朔夜は沙稀から奪い取ったナイフで自らの腕を切り裂いた。
裂けた皮膚の隙間から、見る見るうちに赤い液体が溢れ出す。
沙稀は思わず目を逸らした。沙稀にとっては、何ものにも代え難い芳しい匂いが鼻腔を擽る。

「お前の為に切ったんだ」

ちゃんと見ろ。
そう言って、朔夜は沙稀の頤を捉えた。
僅かに眉を顰めた朔夜の隻眼が沙稀を見る。
沙稀は一瞬だけ泣きそうな眼をしたが、無言で朔夜の肘を滴る赤い液体に唇を寄せた。
流れ落ちる液体をなぞり、傷口に舌をねじ込む。
朔夜の顔が苦痛に歪んだ。
抵抗する間もなく、体をベッドに倒される。

「っ…、沙稀…っ」

掴まれた腕がおかしな方向に引っ張られて痛い。
傷口はズキズキと痺れ、言いようのない恐怖が胸を蝕む。
目の前にいるのは、知っているようで全く知らない人間のような気がした。









床に脱ぎ捨てられた服が散らばっている。

「…っは、っ…」

一体どうしてこういう事態になったのか。
朔夜は朦朧とした頭で考える。
首筋には、生々しい二つの跡がついていた。
行為自体に、意味を求めたことはない。相手が男であったという事もあった。
それ自体に抵抗があるわけでもない。
ただ、この行為に意味を求めようとしているのは何故か。
相手が沙稀になる事を、考えたことがないからかもしれない。

「…ふ、っ…」

体内を滑る沙稀の指が、ひどく生々しい。
意図せずに、体がびくりと跳ねた。

「は、…っ…っく、っ」

噛み締めた唇から、吐息が漏れる。
意識していないのに視界が滲んだ。
沙稀の吐息が耳に触れる。

「朔夜…ごめん」
「…っ、ぅっ…!」

脚を押し広げられ、後孔に宛がわれた沙稀自身が押し込まれた。
ゆっくりと、押し広げられる感覚に足が震える。
知らずにシーツを握り締めた手に、沙稀の手が触れた。

「ごめん…」

もう一度沙稀が呟く。

「…いいよ、っ…好きなようにして、いいから…」

朔夜は小さく笑って、今にも泣き出しそうな顔をしている沙稀の頬を撫でた。
朔夜を見る沙稀の紅い瞳は、朔夜の知らない沙稀の眼だ。
欲望を、本能を剥き出しにした紅い瞳。

「…朔夜…っ」

名前を呼ばれて、腰を揺さぶられる。
抱えられた足が宙を掻いた。
荒い沙稀の吐息が耳に触れる。
朔夜の腰を掴む沙稀の手が酷く熱い。

「は、っ…」

視界が生理的な涙で滲んだ。
これが正しい方法だったのかと問われれば、答えはYESでもNOでもない。
ただ、こうする事しかできなかったのだ。

「沙稀ちゃんが、っ…自分を嫌う事なんか、ないから…」

思わず、そういう科白が喘ぎの合間に口から溢れた。

「俺が…そうしたかった、だけだから…っ」

もう、自分を責めるのはやめてくれ。
俯いた沙稀の頬を、透明な雫が伝い落ちるのが見えた。

「もっと、気持ちよくしてよ…」

恥をかかせるなと、朔夜は笑って、沙稀の頬を拭う。
沙稀は朔夜の腕を掴むと、それをシーツに縫い付けてそっと唇に自分のそれを重ねた。
衣擦れの音が、耳を掠める。
夜は、それ以外の音もなく更けていった。










END 






2012/12/27






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