短編
□雨音に消える
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曇天からしとしとと降り注ぐ止まない雨は庭に咲く紫陽花と良く映えて見えた。
大谷は筆を置き、視界の端に映るだけだった紫陽花へ本格的に視線を向けた。群青に紫、珍しく今年は白も咲いている。たまにはこうして気紛れに花を愛でるのも良い、と半開きであった障子を開け放った。
「…珍しく庭を眺めておいでなんですね、大谷様。」
雨音に凛とした透き通る声が響く。薬箱を下げ、大谷の部屋を訪れた◇◇はいつもならすぐに障子を閉めるが今日はその手を止めた。
「診療の最中はお閉めしますか?」
「いや、人払いは済ませてあるゆえその必要はない。」
「そうですか。では大谷様、包帯を外させて頂きます。」
淡々と◇◇は表情を変える事なく包帯を外していく。細い指先が爛れた皮膚に触れるさまを大谷はどこか自嘲気味に見つめていた。
医者と患者という間柄でなければ決して交わらない視線。触れ合わない肌。それが大谷にとっては笑わずにいられなかった。
それにしてもこの◇◇という女は医者という立場にしても常に顔色一つ変えず、まるで能面を見ているようだと大谷は思う。
この蝕まれた体を見ても眉すら動かさず淡々と治療していく◇◇にふとこの女は何をすれば表情が崩れるのか悪趣味な興味が湧いた。
「…◇◇よ。ぬしは医師でありながらどこぞの姫にも引けを取らぬ愛い顔をしておるな。今でさえ引き手数多であろ?」
得意の口八丁でそう囃すも◇◇は頬すら赤らめずに淡々と治療を続けている。
あながち嘘ではないのだがこの程度では◇◇の能面を剥がせそうにはなかった。
「花を愛でたり心にもない事を吐いたり、今日はいつもにも増して掴み所がございませんね。雨のせいでしょうか。」
「なに、ぬしのその面を剥がしたいだけよ。如何にすればその分厚い能面を剥ぎ、ぬしの本性を垣間見る事が出来る?」
「私の本性、でございますか。本性も何も私に隠す物など何もございませんよ。まさか生娘のように恥じらう姿でもお望みで?」
「…ヒッ、ヒヒッ!それはなかなか楽しめそうよな。ぬしが恥じらう姿など早々に拝めまい。ならばぬしを如何にすればその頬を紅く染める事ができる?見目麗しい男でも呼びやるか。」
「見た目ばかりが良い男には興味がございませぬ。三日で飽きましょうに。」
ふふ、と◇◇は目を伏せて微かに笑む。腕に巻かれた包帯は全て外され、水に浸した冷たい布で肌を拭われた。
「なればぬしが見たこともないような凶星を見せようか。闇夜に蠢く無数の星を。」
「星見のお誘いでしょうか。生憎星にはとんと興味がなくて。」
「ふむ…おぉ、そうだ。井伊に飼われている白虎はどうだ。人の身など一口でぱくりよ。」
「あら、恐ろしい。驚く間もなく私など食べられてしまいますね。」
「男もだめ、さんざめく不幸もだめ、獣もだめ…ほんにぬしは難攻不落よな。どの城よりも落としにくい。」
「暇潰しに私で遊ぶのは諦めて下さいませ。…さ、大谷様。反対の腕をお見せ下さい。」
「はぁ…つまらぬな。」
ため息混じりに反対の腕を差し出せば◇◇はまた淡々と治療をしていった。
目を伏せれば長い睫毛が影を落とす。紅を差した赤い唇は男を誘うように薄く開かれていた。
…あぁ、見目の良い男には興味がなくとも、自分のような醜い姿の男に触れられてはどうだろうか。
悲鳴を上げるか、嫌悪に満ちた眼差しを向けるか否か。
ヒッ、と小さく嗤った大谷は治療の終わった片方の手をゆっくりと上げると◇◇の頬をそっと包んだ。
その柔らかな刺激に◇◇も視線を上げた。
「…大谷様?如何されましたか。」
「なに、ほんの戯れよ。」
口元の包帯を少しずらして◇◇にぐい、と顔を寄せる。そして、その赤い唇にそっと重ねた。
…さて、どんな顔を見せてくれるのか。
想像以上に柔らかかった唇から名残惜しさを感じながらゆっくりと離す。
そして◇◇の顔を見た大谷は思わずその目を丸くさせた。
「…◇◇、ぬし…」
「……!」
見たかった顔がそこにはあった。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳を丸くさせ、頬を真っ赤に染めた◇◇の姿が。