小説
□雨夜の星
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ふとした瞬間、つい視線がその姿を追ってしまうことに気付いたのは、いったいいつの頃からだっただろうか。
痛みに耐えることに疲れ、諦めることに慣れきって、何も見ようとしていなかったこの目が、いつの間にかその存在から目を逸らせなくなっていた。
捨てたはずの羨望とか渇望とでも呼べるような、とにかく落ちつかない感情が、空っぽなはずの心の中でずっと渦巻いている。
ふとした瞬間に呼ばれた名前に、どうしようもなく胸が焦がされた。
そしてとうに死んでいたはずの俺の心を、こうも突き動かす唯一の存在を、守りたいと、そう思った。
それからだ、俺が自分の本当の気持ちを自覚したのは。
けれど、そうして達した結論は到底叶いそうもない想いだった。
だから、これは恋なんかじゃない。
恋なんて、そんな甘ったるい言葉に当てはめるわけにはいかない。きっともっと深くてどうしようもなくて、取り返しがつかなくなるような感情だ。
この気持ちに気付いてから、俺はずっと彼への想いをひた隠しにしている。
それでも溢れる感情は止められず、降りしきる雨の様に、何度でも何度でも、降り注いでは落ちて消えていく水に似た想いを抱えてきた。
だが俺の気持ちは、やはり本人には到底伝えるわけにはいかない。そのため誰にも気付かれない様に、見られないように自分自身ですら偽って。
深く深く意識の底に沈めたはずの想いは――しかし抵抗空しく引きずり出された。
他でもない。その人物によって。
ユーリのことが、好きだ。
決して伝えられない想いも、心の中ならいくらでも、何度だって紡ぎだせる。
冷たい雨が降る夜に、幾度となく俺は思い知らされてきたのだ。
紛い物の心臓が、悲鳴を上げて酷い発作が起きたある夜、俺は初めてユーリに助けられた。寒くて死にそうだった俺を温めようとしてくれた。
そしてまたある時は、ユーリは自分がずぶ濡れになってまで、雨の中動けずにいた俺を探しに来てくれた。
青年に助けられるたびに。想いを隠せば隠すほど、ユーリに恋い焦がれている自分を何度も自覚する羽目になる。
夢のような時間を過ごし、凍えた身体を抱きしめられ、その度に与えられた温もりと近すぎた体温を、俺は今でも忘れられずにいる。
だとすれば、あの時のあたたかさが、今の俺を生かし続けているのかもしれない。
事実、青年は俺にとっての光なのだろう。夜道を照らす月や星のように。
だからもう届かなくてもいいのだ。俺はいつまでも、ユーリの優しさに甘えていくわけにはいかない。
遠く燦然と光輝いて、変わらない一定の距離を保ち続けられるのなら、目の届く場所にいてくれるのなら。
それだけで十分だと、俺はずっとそう思っていた。
雨が降り続く仄暗い外を眺めながら、一人頬杖をついてぼうっと時間を潰していた。
今のところ、今日は特に何の予定も入っていない。朝から土砂降りのように続くこの雨模様では、当然ながら出発の予定はなかった。
もうすぐ雪が降る季節に差し掛かっているのか、降り続ける雨は冷たい冷気を伴っている。
このところの天候不順による突然の雨に、俺たちはまたしても宿で足止めされていた。
『凛々の明星』が請け負ったギルドの依頼はあるものの、それはもう完了して、後は予定の品を依頼人に届けるだけという段階だった。
しかし品物は水に弱いもので移動中万が一にも雨に濡らすわけにはいかない。
それに仕事のためにこの大陸にたどり着き、依頼達成間近だというのに、わざわざまた移動するのは面倒だという意見が出た。
バウルでの移動が可能だとはいえ、この雨では視界も悪く、地上での戦闘も危険だ。わざわざ危険を冒してまで魔物と戦いたい人間はいない。
そう判断したカロルと同意するユーリの一声で、今日は休みということになったのだ。
しかし、折角与えられた自由時間も、この雨では有効活用できそうもない。
嫌な予感はしていたが、またシクシクと胸の辺りが痛みを増してきていた。いつもの発作だ。今はまだ微かな予兆に過ぎないが、油断は出来ない。
幸い今日は休みで移動もなく、暖かい宿の中にいれば、これ以上は酷くならないとは思うが。
繰り返す不調による発作はもう慣れているし、いつものことだとわかっていても、不快な感覚はどうすることもできない。
ここで胸元を押さえれば、誰かに見られる可能性がある。どうにか温くなったコーヒーのカップをつかんで、飲みながら誤魔化した。
今俺がいるのは、宿の食堂だ。夕食までまだ時間がある狭間の時間のためここには誰もいない。夕日さえも分厚い雲に覆われ、正確な時間は判断がつかない。
窓際の席を陣取っているのは、ただ単に昼に同じ席に座ったからという理由だけだ。
フロアで仕切られているものの、宿のロビーの応接ソファの方から、仲間たちが談笑する声が聞こえてくる。
さっきまでは俺もあの輪の中でバカな話に興じていたのだが、ちょっとコーヒーを飲もうと席を立ったところで胸の痛みに気付いたのだ。
本当は人数分コーヒーを淹れて、調子が良ければ何か作ってこようかとも思ったが、そんな余力もなく。
結局ここで一人じっと、脈打つ度に小さく刺すような痛みをやり過ごしていた。