Toshio's ROOM

□truth
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往診の道中。
なんとなく気まずいのはお互い様のようで。


その空気を朱音は感じ取っていた。

やはり酔った勢いだったからか、それも仕方ないだろうか。

敏夫の朱音に対する態度は前とは違うと思う。

これは思わぬデメリットだった。




「あの、先生、なんていうか…
前のこと、気にしてます?」


「いや」


敏夫はそう言うが、言い方がぎこちないのが朱音には分かった。


「先生は全然気にしないでくださいね」


「ああ…
まぁ、君がそうならそれでいいんだろうが」


やっぱり思ったより真面目なんだなと朱音は思って少し笑ってしまう。
敏夫が顔を顰めるのが分かった。


「出来れば。
クビにしないでくださいね」


「まさか。こんなんでクビにするわけないだろう。
君は優秀なんだから。
それにこの前の件もあるし、君を辞めさせたとなると村の連中にも何を言われるか」


「それは大袈裟ですよ、
でも、それなら、よかったです。辞めなくても済むなら」


なんとなくそれだけが気掛かりだった。

尾崎医院は敏夫のものだと朱音は思う。

居心地が悪ければ切っても構わないだろう。


ここは敏夫の城だから。





「ああ、そういえばな、
あの患者な、あと2週間もすれば退院の目処が立つと」


「そうですか、それは良いニュースです、本当に」


朱音は本当に安心して笑った。

経過は順調で、無事に退院できるそうだ。


死んでいたならこうはならなかっただろう。

居合わせたのが看護師でそのまま死なせてしまったとなると。

それを想像して背筋が冷たくなった気がした。














往診を終えて尾崎医院に帰り着いていた。


ふとした会話をスタッフ何人かでしていた。

敏夫はその場にはいないときのことだった。

敏夫の話をしているようだったが、朱音は話半分で聞いていた。


そんなとき朱音はふとしたときに反応を返してしまった。



「え、奥さん?」


「ええ、最近帰って来てるの見ないわねって」


何でもないようにやすよがそんなことを言った。
朱音は気が付かれない程度に目を瞠っていた。


「えっ、結婚してたんですか?誰が、ですか」


言わなくても、今この場に出ていたのは敏夫の話だったはずだ。

しっかりは聞いていなかったが、そうだった。

普段からあまり会話に朱音は口を出さないようにしていた。
それはなんとなく、村の話にはまだ着いていけないことも多いように感じていたから。

だからいつも話半分でなんとなくで聞いていた。

知らない名前も多かったから、理解を100%出来ない。



「えっ、もちろん先生がよ」


「えっ、知らなかったの?」


「まさか…
玉の輿でも狙ってたの〜?」


そんな風に冗談めかして言われても、曖昧にしか笑ってなんとか否定した。


「いえいえそんなまさか、玉の輿なんて」


それまで知らなかった。
知ろうともしなかった。


指輪をしているのは見たことがない。

こういう話はタブーに近いからだろうか。
あまり人がそういう話をしているのも偶然なのか聞かなかった。

いや、この村に来て半年は経っていた。

たぶんどこかで聞いていておかしくなかったはずだ。




あの夜を思い出していた。


女っ気がないなんて遥かに勝手な勘違いだった。


気付くタイミングはいくらでもあったはずなのに。


その瞬間からその日、朱音は心ここに在らずで仕事をこなしていた。

淡々とはしていたし、以前からそんな風だったから周りは何も思わなかったかもしれないが。










仕事終わりに朱音は着替え終えてから、敏夫のいる場所に行った。

職員は皆、尾崎医院を後にしていた。

帰ったと思っていた朱音が突然敏夫の元に血相を変えてやってきて敏夫は目を見開いて驚いていた。


朱音は深く呼吸をした。


「どうしたんだ、朱音ちゃん」


「先生、あの…」


そう言いながら朱音は敏夫の手元を確認していた。
やはり指輪はしていなかった。

自分の注意不足ではなかった。


「指輪、いつもしてませんよね」


「あ、ああ、それがどうかしたか」


敏夫はまだ驚いたようにして、自分自身の左手を見て首を傾げる。

敏夫は何も気が付いていない。

朱音が何も知らなかったとは確かに思いはしなかったのだろう。

これはきっとこの村の常識なのだ。

村の内側にいる自分がまさか知らないとは思わなかったのだろう。

周知の事実で、朱音ももちろん知ったうえでああなったときっとこの人はそう思っている。


汗がゆっくりと流れ出すのが分かった。


「…申し訳ありませんでした」


朱音はその場で頭を下げる。


「な、なんだ、どうしたんだ」


敏夫は座っていたところで立ち上がって宥めようとするが何のことか分からないのだろう。

朱音は小さく溜息を吐いた。


きっと敏夫の方も嫌な予感がすることは感じていたのだろう。

あの夜のことが関係あるのか。

敏夫は考えるようにして顎に手をやる。

なにも起こらないはずだ、と思っていた。

朱音は顔をゆっくりと上げる。


「すみません、
結婚なさっているの本当に知らなかったんです。
申し訳ありませんでした。
クビでもなんでも…」


朱音はまた再び頭を下げる。


「待て待て待て、クビって、なんだってそんな、
…いや、知らなかった…?」


「はい。本当に知らなかったんです。
別居中っていうことも、なにも」


敏夫は長い溜息を吐いて椅子に座り直していた。


「…知らなかったのか。
いやいや、しかしそれは俺が悪い。まさか、知らなかったなんて」


敏夫は申し訳なく思いながら額に手をやるがそれ以上に何も言えないようで、黙っていた。



「奥様になんて申し開きをすればいいのか」


「…いや、妻は帰って来ないんだ」


「でも」


「いや、悪かった、本当に。
俺の方が年も上で、しかも自分の病院の看護師に手を出しちまうなんて」


「いえ、私が」


「いや、俺が悪い。ちゃんと断るべきだった。
悪かった、本当に。
言い訳させてもらえるなら、妻とは別居中で、
お互い冷め切っている。
そんなときだったから、つい、久々で。
申し訳なかった」



敏夫が頭を下げている。



「先生、いえ、でも、後腐れない感じで、良かったんです、
でも、本当にすみませんでした。
先生の立場とか考えれば分かるはずなのに全然考えてなかったです」


知らなかったけれど想像はできたと思う。
結婚していなかったとしても相手がいるかもしれないと想像すべきで、きちんとそのことは聞くべきだったかもしれない。

自分の倫理観がなかったとしか言いようがない。


「君が、気にしないなら、俺はそれで構わないと思うし、とりあえず問題になるわけではない。
それに、君にはずっとここで働いて欲しいと思っている」


「あ、ありがとうございます」


朱音は頭を下げる。

これで終わりなのだとしても元々はそのつもりだったから、それでよかった。

このまま終えれば誰も傷付かない。

思ったよりも、自分が先生に対して魅力的に感じてしまっただけで。











数日後、消防署より救命に尽力したと朱音は表彰された。
そのときの写真が新聞に載って尾崎医院の待合室に掲示された。

そこから朱音にも外場村に居場所が期しくも出来たようなものだった。

村の人間の命を救った看護師として。


2週間もすれば患者と家族とで医院に挨拶に来てくれた。

すっかり元気になった姿を見せて。

それは本当に嬉しいことだった。




そこからはなにもなく、平和な村で仕事をこなす日々が続いていた。


過去のものになるはずだった。
その全てが。
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