Toshio's ROOM
□fall into
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もうすぐで残務処理も終わる頃。
先生がブラインドを閉じていく。
隙間からは夕陽が差しており、照らされると少し眩しさを感じる。
すぐに日も暮れるだろう。
残務を終えて、片付けをしようと立ち上がると先生がスッと直ぐそばまで近づいて来ていて、腕を握られて軽く引かれる。
朱音は驚いて先生を振り返って見上げる。
「せん」
先生、と呼ぼうとして遮られる。
「今日は家にいるんだったよな」
「は、はい…私も先生をお誘いしようかどうか悩んで、とりあえず残業にしてもらってたんですけど…」
「ああ。何となく分かってた」
そう言う先生が何となく不可思議に感じられて、朱音は首を傾げる。
握られた腕は解放されている。
何となく圧を感じて先生を見上げる。
やはりいつもと様子が違うように思われる。
「じゃあ、家で待ってますから」
先生はただ、ああ、と短く返事をしていた。
片付けをしてしまおうとして、先生のそばを離れようとすると、また腕を握られてさっきよりも強い力で引き寄せられる。
その力に従って引かれてしまえば、そのまま先生の胸に収まって抱き締められていて、内心ドキリとした。
突然脈が早くなり落ち着かなくなってきて、頭を動かして先生の顔の方を見る。
やっぱり何かがおかしくて、自分の胸が騒ついてくる。
不安だ。これから何か起こってしまうのではないかと思った。
「あの、先生、どうしたんですか。
何か、あったんですか」
それだけを言っても先生から暫く返答はない。
「あ、あの、先生、もし誰か来たら、」
拙い、と言おうとしてようやく返事があった。
「もう全員帰ったから心配しなくても大丈夫だ」
そんなことは自分でも大体分かってはいるが、それでも誰かに見られる心配はゼロではない。
しかしこの状態ではどうしようもなくて、何を言っても説得もできなさそうで、漸く諦めたように自分からも先生の背中におずおずと今更ながら手を回す。
暖かくて自分よりもきっと大きな背中。
微かな煙草の香りと、清潔な白衣の匂いがする。
これが先生の香りだった。
その香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
愛しさが胸に溢れ出すのが分かる。
このままどこかへ2人きりで行ってしまいたい。
全てを捨ててしまえたらいいのに。
そう思った。
自分の方からも応答があり先生の方も得心がいったのか、暫くして体を離される。
離れて行く熱が何となく切なく感じられる。
「先生、
何かあったんですか」
「いや、何も」
「…そうですか」
何も答える気はないらしい。
こんな風に周りも憚らず触れてくる先生はあまり見たことがない。
悪戯のようにされることはあっても。
誰もいないから確かに問題はないと言えば問題はないのかもしれないが、以前も別に2人きりになることはあったはずだが、さすがにこんなことはなかった。
「あの、気付いてるかどうか解らないし、
別に構わないとは思うんですが、
今日仕事中も先生少し変でしたよ。
なんだかピリついてましたよね、珍しく。あんまりそういう先生を見たことがなかったので…」
先生は少し驚いたように自分の方をじっと見ている。
言葉を続けたものかどうか悩むが、それでも言うことにする。
「他の看護師も気が付いてましたよ。
みんな心配してました。
だから私も先生のこと今日お誘いして良いのか悩んでました、少し。
1人の方がいいのかなって。
でも先生を誘わず帰っていたら後悔しそうだったので、結果としては良かったんですけど」
朱音はそう言って曖昧に笑った。
先生は何も言わなくて、そっと顔を近付けられると、反射のように目を瞑る。
唇に柔らかい感触が触れる。
それだけでこんなにも胸が高鳴るのが分かる。
本当にこんな先生は珍しい。
嫌なわけではないが、こんなに余裕がなさそうなのはどうしてなのだろう。
思ったよりも長く口付けられていて、息をするタイミングを失った。
ようやく離されると、朱音は思わず息を大きく吸っていた。
先生にもそれが分かったのかおかしそうに笑っている。
「悪い、別に何があったとかいうわけじゃないんだ」
「そ、そうですか、
まぁ、そういう、訳もなくイライラすることってありますよね。女子は特に」
「君もそういうことがあるのか」
「えっ、ありますよ」
「あんまりわからないもんだな。
疲れてるというのは分かる時はあるが、あんまり感情の浮き沈みは解らない」
「ありますよ、何もないように振る舞うのに慣れているだけで」
朱音はもう一度自分の方からギュッと抱きついてそのまますぐに離れる。
「じゃあ、そろそろ帰ります。
家で待ってますね」
「多分すぐに行く」
そんな風に言う先生が珍しくて、少し驚いた。
「分かりました」