Toshio's ROOM

□someone else's
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「…先生の奥さん、全然帰って来てないんですか」


情事の後、時間が早かったからか珍しく眠らないまま話しているとき、
酒が回っているのもあるとは思うが、先生が他の誰かではなく自分の傍にいるせいか、少し気が大きくなってそんな風に言ってしまった。
少しの後悔が胸に溜まる。

別に自分のものというわけではない。

そんな風に思いながらもしっかり先生の顔色を見ている自分がおかしいと思う。
でも、そんなことを聞かれても全く顔色が変わる気配がない。

あんまり慌てたりしたところを見たことがないな、と思った。

この人の心が分からない。
聞かれてまずいと言う風でもなく、聞かれるのが嫌と言う風でもなく、何も変わらない。

普通のいつもの会話をしているようで、なんとなく蔑ろにされているように感じてそれにも勝手に傷付いている。
自分には関わりのないことを聞かれたような振る舞い。


「いや、この前帰って来てたみたいだな」


ああ、実際のところは見ないだけで帰って来てるのか、と思った。
そして、そんな風に何とは無しに答える先生が憎たらしいやら悲しいやら。

自分が気にするとは思わないみたいに。

それに言い方が他人事みたい。

他人事ではないだろうに。
帰ってくれば少しの時間であろうとも一緒にいる時間だってあるだろう。

朱音は気が付かれないように小さく息を吐く。

帰ってくれば、どんな会話をして、どんな風に過ごして、そして夜には体の関係があるのか、どうか。


聞いたってどうしようもないし、自分の方の気持ちがややこしいことになっていることに気が付かれてしまうかもしれない、と朱音はそう思う。


それに夫婦なら、あって当たり前のことだ。
聞いたところで仕方なく、答えがどうであっても意味がないことだ、本当は。


「そうなんですか。私、ちゃんと会ったことないんですよね」


「なんだ、会いたいとか言うんじゃないだろうな」


そんな風に失礼なことを平然と口にする人。

失礼なことを先に言ったのは自分の方か、と朱音は思い至って被りを振る。


「…まさか」


たぶん一生会わずに済むのなら会わない方がいいと思う。

本当は、こうして本気になってしまう前は、ややこしいことになれば、村から出て仕舞えばいい、と思っていた。


そんな単純なことじゃないんだな、と心に滲みていく。

ほんの些末なことで、後腐れはなくて、終わらせたいときに終わらせられるんだと思っていた。

でももう遅い。


そう思っていた自分が1番憎たらしい、と思う。


1度目だけで引き下がっていられればよかった。


でも好きだと思って自覚しても自分がどうしたいのかは分からない。

奪いたいのならば、離婚してほしい、とか、迫れるだろうか。


拒絶されたら傷付くんだろうな、と思うと、実際はそれが1番怖いのかもしれない。

だから執着などしないような演技をしているのだ。


馬鹿だなぁ、と自分でもそう思う。


「でも、寂しくないですか。
夜、とか」


「いや、全く」


先生は一人暮らしではないけれど、それでも人肌恋しくなることはないのだろうか。

自分が先生がいつもいなくて寂しいからと言って、先生もそうとは限らない。
当たり前のことだと思う。


「俺には君がいるからな」


そんな風に言われて、朱音は驚きながらも思わず笑ってしまう。

確かに、そのために会っているに違いない。


そっと後ろから抱き締められ、胸に触れられ、揉まれる。
少しイラつきを覚える。


「もう一回するか」


そう言って先生は自分の首筋に唇を寄せて舌を這わせるのが分かって、身震いした。


「いえ、一回で十分です。明日仕事ですし」


「俺も仕事だ」


「先生休み無いじゃないですか」


「無くはないが」


「電話一本でどこへでも飛んでいく癖に」


そう返せば先生は笑っていた。

こんなに悪い男なのに、自分が誘って始まってしまったとはいえ、それに簡単に乗っかってしまう、そんな酷い人なのに、どうしてこんなに真面目なんだろう、と思った。

不良医師、と言われている。


そう言われるのは服装とか、気安い雰囲気とか、砕けた口調、とかそう言うのだけであって、医師としての仕事はきちんとしている。

そういうところが、堪らなく好きで、そう思わせるこの医者が心の底から憎らしい。


振り返って目が合えば、先生は吸い込まれそうな瞳をしていて、朱音はなんとなく魅入ってしまう。

そのまま唇を触れ合わせ、目を瞑る。

柔らかい感触に酔う。

そのまま抱き締められれば堪らなく甘くて仕方ない。


髪を撫でられる。

その優しくて丁寧な手付きが、好き。
その掌に自然と口付けていた。

この人がほしい、と自分自身そう心から思っている。


頬をするりと撫でられて、その手触りが気持ち良い。


無骨な手だが、繊細で、医者だからなのか
器用で、その手に触れられるだけで体が火照る。


「その表情に唆られるんだろうな」


顎に手を添えて顔を上げさせられれば、視線がかち合う。


「いい目をする。
その目は、煽っているときの目だ」


そんなまさか、と言って朱音は視線を落とそうとするが、それは許されないようで。


その瞳に吸い込まれそうなのは、自分の方だというのに。


勝手なことを言って、納得したように唇を付ける。

感覚がふわりふわりと浮かんだように、気持ちが舞い上がる。
熱に侵されたように、体が熱くなったように感じる。

先生の一言一言で、一挙一動で胸がいっぱいになってときめいてしまう。



どうやってこの気持ちを忘れろと言うのか。


先生の目を見ていられない。
自分がおかしくなりそうで。

今はもうその目をこれ以上見ないことにした。













翌日。
尾崎医院にて。
一緒に過ごした翌日に職場で出会うのは何となく気恥ずかしいように思う。



「大丈夫ですか?なんか疲れてますけど。
体力ないですね」


「君は、時々生意気な口を聞くな」


「あらそうですか。
でも仕事ばっかりしてるからそうなるんじゃないですか」


「いや、これは違うだろう」


「…まぁそれはそうですね。
でも、仕事ばっかりしてる先生が、尊敬できて、そういうところがすごくいいんだとは思いますけどね」



好きなところばかりに思えるのは、きっと自分のものにはならないからだ。

手に入らないから、苦しくて愛おしいのだ。


それだけのことだ、と自分に言い聞かせる。
きっと人のものだからだ。
そう思うのは。
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