Toshio's ROOM
□then and now
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「仕事、辞めようと思ってたのか、そんな風には全く見えなかったな」
先生はおかしそうにそう言って笑っていた。
「ま、まぁ、前の話ですよ、でも」
往診の帰り路。
朱音と敏夫は2人で車に乗り込んでいた。
ふと朱音がこの村にやってきた頃の話になった。
朱音はこの村に来て間も無くはここでの仕事をいつか辞めようと思っていた。
「でもここまで続いたので、もう大丈夫です…」
朱音はそう言って、曖昧に笑う。
敏夫も笑い返す。
「もう一年半、か、早いもんだな」
「そうですね、もう、それぐらいになるんですねー」
そうして、彼が家に来るようになって、こんな関係になって1年くらい、だろうか。
早いものだ、と自分でもそう思う。
そしていつまでこんなことを続けていられるのだろうか。
そんな風に考えると不毛に思えて少し笑えた。
「村のクリニックがこんなに忙しいと思わなかったんですよね、来る前は」
「まぁ、そうなんだろうなぁ」
「本当は今すぐ辞めてやろう、ってでも先生の顔見たら辞めれなくて、でも明日こそは辞めてやろうって伸び伸びになりましたけど、
初めの方はずっといつか辞めてやろうって思ってました」
「騙されたって思ったか」
「そうですねぇ…
まぁ村のクリニックにしては看護師が多いなって思ってたんですけどね、初めに気がつくべきでしたよね」
朱音はわざらしく溜息を吐いてから笑う。
先生もおかしそうに口元を緩める。
「でも、今はここに来てよかったです。本当に」
そうでなければこの人に会うことはなかっただろうから。
仕事も村にも慣れて楽しく働けている、と思う。
初めの頃はそんなふうになれると思っていなかった。
この医者がいたからだ、きっと。
「…そうか。それならよかったんだが」
先生は得心がいった、という風だ。
きっと意味は伝わらないんだろう。
それで構わなかった。叶わないのはもう前から分かっている。
切なさに胸が沁みる。
それを誤魔化すように言葉を洩らす。
「でも、本当は、おじいちゃん先生と穏やかにのんびり仕事ができると思ってたんですけどねー
全然おじいちゃん先生じゃないし、村は長閑ですけど、全然のんびりしてないし、毎日バタバタだし、癖しかないし」
「おじいちゃんじゃなくて悪かったな」
「はい、思ったよりだいぶん若かったです。
勝手なイメージですけど、村で医者してる人って若くないイメージだったんですけど、
年もそこまで変わらなくて、面接の時初めてお会いした時はびっくりしました。
それに白衣着てなかったら医者に見えなかったと思います」
「…ったく、悪かったな、こんなんで」
そう言って先生は頭をかいて悪態を吐く。
そんな先生がおかしくて朱音は笑みを溢す。
「まぁ、もう少し前ならおじいちゃん先生だったんだがな」
「へぇ…
先代、ですか。
お父さんってことですよね、先生の」
小さな村だ。
外から呼ばれた医師ではなく、きちんと村に地縁のある者が、この村の医師を勤めている、と聞いてそういうことか、と納得できた。
ずっと代々継いできた。
逃げようもなく。続いてきたのだ。
先代もさぞかしよく出来た先生だったんだろう、と朱音は思ったが全然そういうことじゃなかったらしい。
なんとなく先生が毛嫌いしているのが伝わった。
似てなかったんだろうな、というより、反面教師にしてきたんだろうか。
そう思うとおかしかった。
先生自身、何かを抱えてはいるんだろう。
踏み込むことはできないけれど。
この立場は、後腐れがない関係であることが重要だから。
「でも、先生だからよかったんですよ。そう思います」
先生は何も言わない。
もう、尾崎医院に帰り着いていた。
もう、後片付けも終われば仕事も終わり。
車を停め終えて、降りようという時に腕を引かれて、朱音は座り直す。
振り返れば吸い込まれそうな目をしている先生が見える。
どきりと胸が鳴る。
するりと髪を撫でられ、耳に掛けられる。
すっと頬に手を当てられて顔を上げさせられて口付けを交わす。
胸の高鳴りが止められない。
辺りはもう暗くなっており、エンジンも静かになっているから、車の中も暗くなっている。
すぐに離れて、そして頭を撫でられる。
私は一瞬思考が止まっていたが、先生は先に車を降りていく。
ドアが開く音ではっとして、朱音も急いで彼を追うように車を降りた。
往診に行くと2人きりになることがあるから、こういうことがある。
だからかなんとなく、期待してしまっている自分がいることが、気恥ずかしい。
先生は先を行って、医院の扉を開いて、こちらを振り返る。
名を呼ばれるのが分かって、朱音は嬉しくて小走りになっていた。