Tatsumi Dream

□Mondschein
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そっと重い扉を押し開く。
中から微かに気配がするのが分かった。


そして小さく啜り泣くような声。


それが誰の声なのかすぐに分かって、麗奈は足を止めていた。

そっと覗き込むように部屋の中を見れば、沙子と辰巳がいた。


沙子は啜り泣いていた。

何かあったのかもしれない。
それは分からない。


この村に来て、計画は着々と進みながら、順調とはいっても、それでもいいことばかりであるはずがない。


特に麗奈や沙子はあまり山入には行かない。
麗奈は沙子以上に山入には近付かない。

何よりも恐ろしいからだ。

悪意が溜まっている。
それは膨れ上がっていく。
桐敷家に対する憎悪が。
全てを覆っていく。


辰巳さえいなければそれは簡単に噴出してしまうだろう。


そう思うと怖くて堪らなかった。

それほどに恐ろしいことをしていると分かっていた。


それを悪と言うしかないこともよく分かっていた。




沙子はまるで辰巳に縋り付くように泣く。


辰巳は宥めるようにその体を支えて小さな背中を優しく撫でる。

沙子や自分には辰巳は比較的優しいと言える。


山入では残虐非道な行いを繰り返し、全ての恨みを一人買いながら。


不満は溜まる一方なのだろう。

この先どうなるのだろう、と思いながら麗奈はその場から離れる。


邪魔をしてはいけない、とそんな風に思いながら、麗奈は静かな廊下を足音を立てないように歩く。


複雑な思いがした。
でもその思いの正体が何なのかを麗奈は分からないでいた。


ただあの二人の関係はどこまでも特別なものなのだ、とその思いが心の中に確かにあった。

きっと度々あることなのだろう。
そう思った。
沙子がずっと気丈に振舞っていられるはずがない。
それも沙子と長くいる自分がよく分かっていたはずだった。




麗奈は一人ピアノのある部屋に戻って椅子に座ると鍵盤蓋を開く。

キーカバーを取って脇に置く。


そっと鍵盤に指を載せる。


目を瞑って、鍵盤を強く叩く。

どうしてこんなにもやもやするのか分からなくて、思うままに旋律を奏でていた。


ずっとそうしていた。

その間は無心でいられる。
何も考えないで済む。

そうすれば苦しみに流されなくて済む。







そうしながらいくらか時間が経った頃、扉が静かに開かれるのが分かって麗奈は振り返っていた。

そして鍵盤から手を下ろす。
そうすれば音も霧散して消えていく。


虚しく響く余韻だけを耳に残していた。


「今日のピアノは珍しく荒れてるわね、麗奈」


「沙子…」


シックなワンピースに身を包んだ沙子が扉近くに立つ。
優雅に微笑んだ彼女は麗奈の近くに寄る。


「もう弾かないの?
最近また弾くようになってくれて嬉しいわ」


「………うん」


麗奈はただ沙子の瞳を見る。

先ほどまで泣いていたようには見えなかった。

辰巳に甘えるようにして、縋り付いて今まで慰めてもらっていたのだろうか。
そうして心の安寧を測っていたのだろうか。
今までずっと。


麗奈は椅子の端に座り直すと、沙子は頷いて麗奈の隣に座り込んだ。


「何か弾いて、麗奈」


「何がいい?」


「何でも。あなたの好きな曲がいいの」


沙子に頷き返せば嬉しそうに微笑まれる。
麗奈は目を細める。

沙子が笑ってくれるなら私も嬉しい。

鍵盤に手を静かに置いた。

そして旋律を奏で始める。

複雑な思いがしていた。
胸に消えそうもないほどの蟠りが溜まる。
泣かないで欲しかった。
笑っていて欲しかった。
そう思って、沙子が大切で、ずっと傍にいた。
そうすることを選んだ。

でも、沙子は辰巳に縋る。
辰巳もそれを受け入れる。

二人は特別な関係だ。
わかっている。
自分には介入できないほどに深い絆を何時の間にか作ってしまった。

この思いはだからなのか。
嫉妬なのかもしれない。

こんな風に蚊帳の外にいる自分を憐れんで、同じ存在であるはずなのに。

こんなにも違う。

麗奈は内心の思いを燻らせる。

その思いのままにピアノに向かう。
感情をぶつけるように、叩きつけるようにどうにか解放して欲しくて、荒々しく旋律を紡いでいった。

激しく、始めから終わりまで。

指が回らなくなりそうでも、何とか続けていった。



一曲が弾き終わると腕が疲れる。
手を静かに下ろし、小さく椅子に座った沙子を振り返る。
沙子は満足そうに微笑んでみせていた。


音がすっかり鳴り止んで、麗奈は一つ溜息を吐いた。
沙子は泣いていたようにはやっぱり見えない。
見えないけれど確かにさっきまで泣いていたのだ。


今はそれを少しも感じさせない。
確かに泣いていい立場とは思わない。

思わないけれど、今までこうして生きてきた。
沙子の望みはよく分かっていた。

叶えたいその望みも痛いくらいによく分かっていた。


「…こんなに近くでピアノが聴けるのはいいわね」


「CDならもっと上手なのが聞けるのに…」


「生の音には敵わないわ、麗奈」


沙子は椅子から降り立つ。


「ありがとう。
私も麗奈のピアノが好きなのよ」


「ありがとう、沙子」


「また聞かせてね。じゃあね、麗奈」


沙子はその身を翻す。
得心がいったようにしている。
きっとこの部屋から出て行ってしまう。

麗奈も椅子から降りて、沙子に声をかけていた。


「ま、待ってよ、沙子。
待って」


「どうしたの?麗奈…」


「辛いことがあったのなら私にも言ってね。
私にできることがあるのなら…」


そう言いながら、辰巳のように何でもできるわけではないことに当たり前のように気が付いていた。

辰巳のようにはなれない。


辰巳は自分たちをどこまでも生かそうとする。
何をしてでも、辰巳はそうするのだ。
何のためなのかは分からない。

でもきっとそれすらも、辰巳自身のためなのだと思った。


「麗奈、私は大丈夫よ。
計画だって順調なの。
上手くいけば麗奈のことももう少し自由にしてあげる。
都会に辰巳と遊びにも行けるようにしてあげる」


「辰巳はそんなこと喜ばないわ」


「そんなこと、ない。さっきのピアノまた辰巳に聞かせてあげて。
喜ぶと思うから」


「…どうして…」


沙子は曖昧に微笑んでいた。

何が言いたいのかは分からなかった。
麗奈は沙子の手を取り上げて握る。
冷たい手だった。

沙子も残酷なことを繰り返して計画を無理矢理にも推し進めていった。

その全てを辰巳にやらせはしたが、計画したのも沙子だ。
責任の在り処は沙子にあるはずだ。

その報復がいつかその身に降り掛かるとは思わないのだろうか。

この運命を呪う。
起き上がったのは自分が悪いのではない。
人が羨ましい。

とてもとても羨ましい。

人としての普通の人生を歩むはずだったのに、それを全て奪われた。
その代わりに偽物の永遠を与えられた。


願ったのは普通の人生だった。
だから沙子はここでそれをやり直すつもりなのだ。


理解する。
痛ましいほどに自分もずっと願ってきたことだから。

でもこれは悪いことなのだ。

その思いは拭えない。

人を殺しているからではない。

それなら散々やってきた。
食べなければ飢えて死んでしまう。
それを正当化しなければここまで生きていくことなどできなかった。


食事をすることは少なくとも罪ではない。
それを正当化はできても今のことはとてもじゃないが正当化できなかった。
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