Tatsumi Dream

□Bndiction de Dieu dans la solitude
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微かにピアノの音が響く。辰巳の耳を柔らかな音が谺する。
ここに来る前には屋敷内でよく聞いていた気がする。
彼女の好きな曲だ。
そして弾いているのも彼女だ。
間違いない。
昔からずっと聞いている。
自分が彼女の音を聞き間違えるはずはない。


辰巳はその旋律を聞きながらもう夜なのか、と漸く気が付く。

彼女が目を覚ます。


ゆっくりする暇もないほど忙しいと時間感覚が曖昧になっていく。
外に出なければ余計に。


一日一日確かに時を刻み続ける。


佳枝が既に動いているのだろうが、そろそろ山入に行かなくては、とそう思いながらも辰巳は桐敷の屋敷に唯一あるグランドピアノの部屋に向かっていた。


まだ音は流れるように響いていた。



その部屋の扉をそっと押し開くとピアノを弾く少女の後姿が見えた。

頼りなさ気な背中は寂しく見える。


辰巳は演奏中の邪魔をしないように彼女の背後に佇む。
しかし彼女は気配を察したのか一瞬ちらと自分へ視線を寄越すように頭を動かした後、そこで何の躊躇もなく演奏を辞めてしまう。
余韻だけが辺りに漂う。

彼女はどこまでも敏感だとそう思う。
ある意味それが厄介ではあるのだが。


「…どうしたの?辰巳」


彼女は白黒の鍵盤から手を下ろして振り返る。
柔らかな髪が緩やかに揺れる。

その真っ直ぐな瞳は闇のような真黒に染まる。

仕方なく辰巳は微笑みかけながら彼女の近くに寄る。


「ピアノの音が聞こえたからね。
君が起きてるんだとそう思ったんだ」


「夜なんだから当たり前でしょう?」


「それでもピアノの音を聞くまで夜だなんて気が付かなかったんだよ」


「……そうなの。ご苦労さま」


彼女は心底詰まらなさそうにそう言った。
鍵盤を一つ叩いて音を奏でる。

気に入らない、と言葉以外の音だけで表すように。


「…続きを聞かせてほしいな」


「CDでも聞いてなさい」


彼女はぴしゃりと冷たくそう言葉を洩らす。
早く何処かへ行ってしまえ、とその瞳は物語っているかのようだった。

それでも今はここを離れるつもりはなかった。
彼女のピアノを弾く姿を見るのは久々なのだから。
最後まで聞きたい曲がある。


「…CDでは意味がない。
その曲は君が弾くからいいんだ、麗奈」


そう言ってやれば麗奈は顔を顰めて睨め付けてくる。
その様子すら自分を煽ってくるものだとは彼女は分かっていない。


「……本当に性格が歪んでるわよね」


麗奈は呆れたように息を吐くと諦めを見せるようにして、ピアノに向かいながら鍵盤に静かに両の手を置く。
辰巳は麗奈の背後にいた。


麗奈はもう辰巳を気にせずにピアノの演奏をするつもりらしい。


辰巳は満足そうに唇を弧に描く。

彼女を弾く気にさせるのは中々難しいから。


本当にこの曲を聞くのは久々だとそう思った。
たぶん、この村に来てから初めて聞くと思う。
彼女はずっと弾こうとしなかった。
そもそもピアノに長らく近付かなかったのだ。



フランツ・リスト作曲、ピアノ曲。
詩的で宗教的な調べ、第3曲「孤独の中の神の祝福」




しかしこの曲を弾く彼女を見るたびに憐れに思う。
沙子もそうだか、彼女も同じだ。

神に縋りたがる。

それに彼女はきっと今眠りから解放されたばかりなのだ。
いつものように抗えない昏睡から漸く目覚めて体を起こすことができた。

しかし、きっとその度に彼女は時を刻むことに恐怖する。


また始まる。
人ではない日々が続いていく。


人ではないと心のどこかでは認められないまま。


どれだけ時が過ぎようとも、彼女は変わらない。
変われないのだ。


神の祝福、など。


そんなものがあるはずはない、とどうして考えられないのか。
悩み足掻いてそれでも結局ここに帰ってきてしまう。

もし全知全能の神がいたのならば世の中がこんな風であるはずはない。

そう思うと憐れでならない。
早く諦めてしまえば、いいのに。

しかしそうすれば自分も全てに興味をなくし、諦めてしまうのだろう。




彼女の指が静かにゆっくりと鍵盤を叩いて音を奏で始める。

表現力を必要とする曲だ。

しかし屍鬼である彼女が演奏するのなら鬱々と暗く、やはり救いのあるような曲には聞こえない。
彼女もそれをきっと分かっている。


でも弾かずにはいられない。
縋らずにはいられない。
きっと今までずっと我慢していたのだろう。

でも今またそうせざるを得ない精神状態になっている。


可哀想に。


静かで穏やかで幻想的な調べが拡がっていく。
10分以上もある長い曲だ。


緩やかなメロディーでありながら弾きこなすのはきっとかなり難しい。
そしてこの曲は飽きさせずに他者を魅せるのもまた本当に難しい。

でも情緒豊かで彼女の内面を深く表すようで、自分自身彼女のこの演奏は飽きない。


聞きながら同情せざるを得なくなる。

彼女は"この計画"に賛成していないから。
きっと全てが不本意なのだろう。
でも沙子同様死にたくはない。


このままでもいたくないのだろうが、それでもどうしていいのか分からずにこうして縋り付くようにピアノに向かう。

本当は神に縋りたくて。


どこにもいない存在を目の前に認めたくて。


信仰の要を欲する。


次第に曲調は穏やかな木漏れ日のようなものから厳かで盛大なものに変わっていく。

分かりやすい曲ではある。
派手さはあまりなく、灰汁も強くはない。


だからこそ表現力が大事なのだろう。
彼女の感情が全てのし掛かるかのようだから、やはりこの曲は悲惨に聞こえる。


聞きながらアルペジオがたまに乱れるのが分かる。

それが微笑ましい。
麗奈はしっかりとピアノの技巧を学んだわけではないから。
彼女はピアノを弾くこと自体好きなことではあるのだろうが、特別によく弾くのはこの曲ばかり。


弾き慣れているはずなのにやっぱりいつも乱れていく。
そして重音を響かせるとき音の響きや重なりに滑らかさがなくなる。

きっと鍵盤に指が届かないのだ。
力が入り切らない。



それが辰巳には微笑ましくて微かに笑ってしまう。

しかし、その瞬間彼女は自分を振り返っていた。

そして続けて次の音には進まない。
余韻だけを辺りに残して続く旋律は響かない。

そうして音は止み、しんと静まり返る。

辰巳は内心がっかりして残念に思う。
まだ演奏は終わっていないから。

最後まで聞きたかったが、ここからまた彼女を弾く気にさせるのは中々難しいに違いない。


彼女はこちらを振り返っている。
そして完全に鍵盤から手を下ろしてしまう。


辰巳は真っ直ぐに麗奈の瞳を見下ろす。
麗奈の目は次第に釣り上がる。


「何が面白いの?辰巳?」


「……別に。何も…?」


「あんた笑ってるじゃない!ムカつく!」


余りにも子供っぽい言葉に辰巳は笑ってしまう。
麗奈は更に不機嫌そうにしていた。
そして突然ピアノ椅子の上に立ち上がる。
自分をじっと怒った瞳で見下ろしてくる。
きっと自分に見下ろされるのが気に入らなかったのだろう。

自尊心の強い彼女らしい。
腰に手を当てて胸を張り、どこまでも不満そうにする。


「麗奈、子供っぽいな」


「煩いわね!この曲難しいんだからね!
指が届かないんだから!馬鹿!笑うな!」


麗奈は腹立たしげに自分の手を見つめてから、そのまま辰巳にその手を握り拳にして振り下ろす。
ばしりと叩きつけられるが辰巳は避けもしなければ、むしろ微かに笑うようにする。
それがまた麗奈には気に入らないらしい。


「もう!それに辰巳はもっと派手な曲の方が好きなんじゃないの?
ピアノが聞きたいならCDでも聞いてなさいよ!どうしてここに来るの!馬鹿!」


辰巳はまだ麗奈に笑いかける。

空気を敢えて読まない。
麗奈はそのこともよく分かっているから、益々腹立たし気に辰巳を殴りつける。

その弾みで椅子の上での重心が安定せずに歪んで、足元が危なっかしくふらつくので辰巳は麗奈の腰に手を回し、自分の方に抱き寄せるとそのまま椅子からゆっくりと床に下ろしてしまう。

その瞬間から暴れるようにする麗奈の体を強く抱き締め腕の中に閉じ込める。

やはりどこまでも冷たい体だ。
自分との体温の差をまざまざと感じる。


「ちょ…っと!何するのよ!離しなさい!辰巳!」


「…煩いな。危ないだろう?そう思ったから…」


言いながら名残惜しくもその冷たい体からそっと手を離せば辰巳は麗奈を見下ろす形になる。
麗奈の機嫌は悪いままだ。


「見下ろされるのが嫌なの。
辰巳って本当にムカつく!」


「どこでそんな言葉を覚えてきたんだか…もっとお上品にしたらどうかな?」


「煩いわ、馬鹿辰巳!」


「はいはい。
ほら、お嬢さま?」


辰巳は静かにその場に跪く。
麗奈は驚いたように目を丸くする。


辰巳は麗奈を見上げ、笑いかける。
これで満足だろう、とでも言いた気に。

麗奈にとってはそれも気に入らないと言えば気に入らないに違いない。


「………なんで…」


麗奈は視線を下ろしながら、一瞬たじろぐようにする。


「君が言ったんだろう…?」


麗奈は顔を顰めてまだ不満そうにはしていたが、その小さな手のひらを辰巳の頭の上に載せる。
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