Tatsumi Dream
□fear
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お昼休み。
私の方が食事も喉を通らなかった。
間違えているのは私だ。
大切なことを見落としている。
その考えが消えなくてまざまざと今までのことが蘇っていく。
そうすると気分が悪くなっていく。
この村に来てから起こったこと全てが思い出される。
いいことも悪いことも。
たくさんのことがあったのだ。
確かにそうだった。
「……麗奈ちゃん、それ…指切ったの?」
はっとして顔を上げていた。
傍には律子さんが立っていて少し複雑そうに見下ろしてくる。
「あ、はい…
昨日少し包丁で指を切ってしまって…」
「そうなの…大丈夫?
患者さんの点滴とか血圧測るの大変じゃなかった?」
「あ…全然、大丈夫でした。左手ですし…
そんなに痛みもなくて…」
「そうなの。でも何か困ったことがあったら何でも言ってね」
「あ…はい。ありがとうございます。助かります。でも本当全然大丈夫ですよ」
しかしどうしてかそう言われた瞬間に痛みが戻ってきたような感覚に浸されていた。
何となく今まで忘れていただけだった。
ずきずきと痛み始める。
怪我から体内の血の流れを感じる。
そして確かな心臓の鼓動も。
昨日から切った指には絆創膏が適当に巻かれているだけだった。
そこまで深く切ってしまったはずはないからこれで十分なのだ。
結局昨日作ったサンドイッチは今食べることになっていた。
昨日はそれどころではなくて。
そういえば昨日は何があったのか。
唐突に昨日の律子さんからの電話を思い出していた。
そういえば何となく忘れてしまっていた。
それどころではなくて。
律子さんは私の隣に座ってお弁当箱を開き始めていた。
「……ねぇ…律子さん。
そういえば昨日何かあったんですか?」
律子さんに問いかければ律子さんは少し申し訳なさそうにしていた。
「……え、ええ。えっとね…特に何かがあったわけではないんだけれど…
ごめんなさいね、本当突然で…」
「いえ。でもご迷惑をお掛けしてたんじゃないかと思って…
大丈夫でした?」
「ち、違うの…
本当…何かがあったのではないの」
律子さんは言い難そうにしていた。
それだけはよく分かったし何かがあったであろうこともよく分かっていた。
「…そうなんですか。
でも突然頼んでしまって申し訳なかったです。
本当すみませんでした」
「い、いいのいいの。それはでも…
…でも…私は何もできなかったわ」
「…律子さん?
…本当どうしたんですか?何か…変ですよ…?」
昨夜何かがあった。
それを私は無視をしてはならないと思う。
「ううん…
上手く説明できない…
勘違いかもしれないし…」
「律子さん?
昨日の夜、ですか?
もしかして何かありました?
私、結局昨日尾崎医院に行ったんですよ。
少し心配になって…」
「え……ごめんなさい。私が行けてればよかったわよね…本当ごめんね」
「いえ。それはいいんです。
それに行かない方がよかったのかもしれません」
先生は特に私には来て欲しくなかったのだろう。
どうしてか。
本当に若御院の言うような意味なのかどうかは分からないが。
それに節子さんは回復傾向にある。
私は要らないということでもあるのかも。
それはそうなのかもしれない。
「え?」
「いえ。こちらのお話です。
でも昨日律子さん焦っていらっしゃるようだったから…」
律子さんは何度か首を振っていた。
「ううん。本当に何も…
でも、ね……
説明できないことなんだけど…
…でもね…最近夜がとても怖くて……
昨日もとても怖くなってしまったの。それで…
本当それだけなの。こんなので本当ごめんね」
律子さんの声は思った以上に思い詰めるような様子だった。
律子さんは顔を上げて私の目を見る。
分からなくて私は首を傾ける。
おかしいと思う。
分かりたいのにどうしてか分からない。
「律子さん?」
「いえ……
きっと気のせいよ。
別に何もないわ。本当ごめんね、麗奈ちゃん」
「いえいえ。大丈夫ですけど…
でもそんな気にさせてしまうなんて申し訳ないです。私のことは気にしないでくださいね」
「…ごめんね」
「いえ……
それに、最近はどこでも物騒なものですから…
夜道には気を付けた方がいいかもしれませんよ。この村でも。
私も、この前…なんだか……」
話し出そうとして思考回路がはたと止まってしまう。
頭が上手く働かない。
「………」
「麗奈ちゃん?」
あれは何だったのか。
異様な雰囲気と恐ろしいまでの負の感情。
あれは一体何物の存在だったのか。
全てが私に重くのし掛かって降り掛かる。
分からない。
唐突に思い出して思考を鈍らせる。
あのとき嫌な気配を確かに感じていた。
ああいう感覚を何と言い表していいのかが分からない。
感じたことのない感覚と恐怖。
不可思議で恐ろしい。
何かを奪われてしまう感覚に確かに本能的な恐怖を覚えた。
きちんと言葉にはできない。
あのときもしかして辰巳さんがいなければ何かが起こってしまっていたのではないのか。
どうして辰巳さんなのか。何故、何故。
どうして。
「……あの…前なんですけど…
この村の中で…なんですけど……
変な人を見たんですよねーそれで…」
あれがおかしな人であった保証などなかった。
自分の勝手な勘違いかもしれない。
そうかもしれなかったが何故か確信めいたものが今更になって胸の奥を冷たく冷やす。
夜が怖い。
分かる感覚だった。
それでも自分は夜闇の中を飛び出して行ったのだけれど。
乾いた声が洩れる。
どうしてか自分は小さくははと乾いた声で笑っていた。
まるで誤魔化すかのように。
「………」
あれは何だった?
あれは一体何を表すものだった?
夜に蔓延る恐怖には覚えがあった。
もしかして見逃してはならない類のものだったのではないのか?
分からない。分からない。
頭がずきずきと痛んで仕方がなかった。
こめかみに手を当てる。
それでもまさか、と一瞬頭に浮かんだことを否定する。
浮かんでは悉く潰して拒否していく。
あり得ないこととして。
こんなことはあり得ない。あり得ない。
そうではなくて。
あってはならないのだ。
そんなものはこの世界には合わないから。
(…考えて)
そう言った人の言葉を思い出す。
辰巳さんの言った言葉だ。
何を考えろと言うのか。
一体何を。
何を。
もう嫌になるほどに考えた。
今だって考えてはいるのだから。
どういうこと。
どういうことなのか。
「麗奈ちゃん?」
不安そうな律子さんの声にはっとしていた。
私は一度首を振る。
振り払うようにそして目を伏せる。
「……い、いえ。何もないですよ。
でも変な人だったん…ですよ、たぶん…
でもこの村でもやっぱり不審者とかもいるんですかねー……
…律子さん綺麗だから…
…危ない…です、よね…
いや…でも……あれは勘違いですかねー…やっぱり…律子さんならまだしも私は…そんな…あり得ないですから」
「……そんなこと…」
「いえ。でも、ほら、最近亡くなる方も多くて…
ただでさえ…引いていくみたいに…それも…
………起き、上がり……」
直接的に言葉にしてみるとぞくりとした。
「お…起き上がり……?」
「ああ、いえいえ…そんなこと…
でもこの村で昔から言われてることなんですよねー…言い伝え…みたいな感じで……?」
「そんなまさか……ないない。
……あり得ないわ。そんなこと、あり得ない」
「そ、そうですよねー…本当ないですよ」
近い位置にいる、とそう言った。
誰が。
私が何に近い位置にいる?
以前に若御院とはそういう話をしているはずだった。
確かに、でもそのときは若御院の小説の話をしていたのであって。
どうしてその話になったのかは自明だった。
若御院はそういう類の話に詳しくて今まさにそういう小説を書いているから。
ただそれだけのことなのに。
「麗奈ちゃん、本当ごめんね。本当何ともないから…」
「いえいえ…私の方こそ……」
そのまま押し黙っていた。
どうしてか詰め寄って確認できなかった。
昨日何かを見たのではないのか。
何かがあったのではないのか。
とても恐ろしいことが。
確かにこの村で起こっているのではないのか。
今ここで見過ごすことはこれからの未来に重く深く閉ざしたものが降り掛かるのではないのか。
起き上がり。
この世界に蔓延る化け物を。
夢物語のようでいて、それはまるで。
何かに結び付いていく。
少しずつ少しずつ。
でもそれを否定するだけのものがまだ麗奈の中に存在していたから。