Tatsumi Dream
□gratitude for the doctor
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尾崎医院に朝早くに出勤してきて着替えも済ます。
まだ辰巳さんに付けられた鬱血痕が微かに残るから心配だった。
これを見る度に憂鬱な気分になる。
それなのに胸が高鳴る思いもするからどうにも矛盾している。
診察室や、待合室を手持ち無沙汰で軽く掃除する。
まだ誰も出勤してこない。
しんと静まり返って、溜め息を吐いた。
いやに大きく響いて、それにもどきりとしてしまう。
まだ頭からは離れない。
心を蝕んでいく不安もある。
でもそれだけではきっとなくて。
こんな始まり方でさえなければ、なんてそんな風に思ってしまう。
深く息を吐いていた。
「でかい溜め息だな」
おかしそうに声を掛けられて、肩がびくりと揺れる。
恐々振り返る。
よく見知った声だった。
「先生…」
「おはよう、麗奈ちゃん」
「おはようございます。お早いですね」
「早いのは麗奈ちゃんの方だろう。
相変わらず真面目だな、感心感心」
そんな風に言われて、笑ってくれる。
いつもの笑顔にほっと安心してしまう。
それでも先生はどこか寝不足に見えた。
相変わらずジーンズに白いTシャツに白衣を前を止めることもせずに、引っ掛けるように着ていて、だらしないのかもしれないが、私としてはどこか親しみやすさがある。
それでも悪く言えば全く威厳がない。
そのせいで、他人には舐められてしまうかもしれない。
村にもたまにはそういう人がいる。
先代とは違って息子の方は真面目ではない、と。
自分には先代を知る由も無いが、それでも噂は何度か聞いている。
少なくとも尾崎医院のスタッフに関してはこの人以上はいないと信じている。
私もこの人以上はいないと思う。
この格好だって、面倒くさい、という思いがゼロではないことも了解してはいるが、それでもそういう威厳を払拭したいという思いからきているとも勝手に理解している。
はっきりと直接には聞いてみたことはないが、きっとこの人は先代である自分の父親をよくは思っていない。
そんな気がしていた。
この人の医者としての心意気が好きだった。
患者に対する向き合い方も、医療に対する考え方も、全て。
この人なら信用できる。
そして必要ならば意見もできる。
上司はこんな人がいいと確かに思った。
もうこの人の下以外では働けない。
拾ってもらって本当によかった。
きっと恩を返そう。
そんな風に思った。
「なぁ、麗奈ちゃん」
「はい」
先生を仰ぎ見れば、どこか深刻そうな顔をしていて、血の気が引いた。
「その、なんだ」
先生は言い難そうに言い淀む。
もしかして、そんな。
嫌な予感がする。
「わ、私、首ですか!?」
思わず口を付いて出ていた。
先生は怪訝な顔をして首を傾げる。
「………麗奈ちゃん、君、一体何をしたんだ?」
先生は呆れた顔をしていた。
「な、何も!」
私は頭をぶんぶんと何度も振って否定した。
知られているわけではないらしい。
辰巳さんとのことを。
まだ噂などにはなっていないようだった。
早まってしまった。
自分から思わず口走ってしまっていた。
先生は口をへの字に結んで、顔を顰める。
「俺は君みたいな優秀な看護師を手放すつもりはないが…」
先生は少し怒ったように顔を顰める。
「あ、ありがとうございます、精進しますっ…」
「ああ。そうしてくれ。
頼りにしてるからな」
先生は軽く笑ってくれる。
そんな風に言ってもらえるなんて本当にここに来てよかった。
認めてもらえるなら。
そのことが嬉しくて堪らない。
以前とは全く違うこの環境が大切すぎた。
「それでも何かあったらちゃんと俺に一番に言うように。
いいな?」
「はいっ…分かってます」
先生はここに来る前の私のことを大体知ってくれている。
まぁ私がこの村に来た当時は村中の噂になっていたのだから、それも当然なのだが、それは噂だから、住人に対して情報の正誤は問えない。
それでも先生は限りなく事実のみを知ってくれている。
私のそのときの心境まで。
ここに来る前に起こした問題のせいで、医師を信用しきれないことも、全部。
それでも全て知った上でこの場所で働かせてくれている。
大変だったに違いない。
私みたいな看護師を受け入れるのはかなり問題だったに違いない。
きっと迷惑を掛けっぱなしだったはず。
それでも押し通してくれた。
拾ってくれた。
本当に先生が私をこの村に招き入れて、受け入れてくれたことが有難くて仕方がなかった。
だからこの場所で先生を支えられるくらいになりたい。
勉強も怠らない。
役に立てるように。
そんな風にずっと思っていた。
頭にぽんと手を置かれる。
「…麗奈ちゃん、寝癖。
まだ付いてるぞ。それが気になって仕方なくてな…」
先生は神妙そうなのを装い、そんな風に言う。
その証拠に口元はからかうように弧を描く。
「え!?」
先生は隠さずに笑っていた。
頭を慌てて押さえる。
ずっと見られていたなんて恥ずかしい。
直してきたつもりだったのに。
そのまま先生はおかしそうに肩を揺らしながら自分を見下ろしていた。
「…珈琲、淹れてくれないか。
寝癖ぐらいかわいいもんだ。
たまにはそんな隙もあっていいと思うしな。気にはしなくていい」
「せ、先生…」
恥ずかしくて堪らなくなる。
先生にそんなことを指摘されてしまうなんて。
それでも先生がどこか誤魔化す様子だったのを私は見逃さなかった。
髪はきっとこの場での言い訳だ。
早とちりだったが、きっと先生が言いたかったのは今の状況、のことではなかったのだろうか。
最近人が多く死んでいる。
まだ表立っては言葉にしてはいないが、それでも今年はどこかおかしい。
夏から。
それまでは夏まではきっと変わらなかったのではないだろうか。
最近になってからだ。
きっと恵ちゃんが死んでから。
誤診だ、と先生がそう言ったとき、私も狼狽えてしまった。
それ以来、この死の連鎖は顕著だった。
先生が最近疲れた風なのはそのせいだ。
私は医者じゃない。
それでも何かできることがあれば、何でもしたいと思う。
支えたい。
看護師として。
そう心に誓うように胸元を押さえながら、マグカップを取り出す。
二人分の湯を沸かしながら、考えていた。
跳ねた髪を気にするようにすると先生はこちら見て小さく笑う。
それが恥ずかしくて軽く睨め付ければ、先生は肩を竦めて見せる。
最近、本当に何が起こっているのだろう。
どう考えても去年の夏はこんなに人は死んでいなかった。
今年は確かに暑いし、こんな村だから死が目立つだけだとも思ったが恐らくはそれだけじゃない。
異常だ。
これは確実におかしい。
何かが起こって、始まってしまった。
そんな気がする。
ぞくりと背筋が震えた。
この村から逃げるつもりはなかった。
何もなければ、何かの間違いなら。
そう思うと先生の負担にはなりたくはなくて、口を噤んでしまう。
もう少しだけ。
確認だ。
調べたいこともたくさんあったから。
それでもこのままではいられない、そんな風に思っていた。