Tatsumi Dream
□night
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目が覚めると辺りはぼんやりと薄暗く、外からは微かに光が洩れていた。
まだ夜も開け切らってはいないらしい。
もう一度目を瞑って寝返りを打つ。
肌に冷たく触れるシーツが心地よい。
さらさらと清潔感のある感触だった。
いつの間にベッドに入ったのだろう。
記憶にない。
ふかふかと柔らかな布団に包まれている。
手探りでそれを頭まで引き上げる。
傍に温かいものを感じて頬を擦り寄せた。
すぐに人肌だと思った。
久々の感覚だった。
誰かの腕に抱かれて眠るのは本当にいつぶりだろう。
この生活に不満はなかったけれど、ときどき寂しさが胸を突いて乱すのを感じる。
それが堪らなくて、今だけは甘えていたくて暖めて欲しくて、更にその温かさに自ら寄り添って、手のひらでそれに触れた。
本当に温かい。
その素肌が温かくて、包まれている感覚が気持ち良くて。
更なる眠りへと誘われそうになったところで、唇に柔らかい感触がゆっくりと降ってきた。
頬を撫でられ、唇に触れられ、それが全ての感覚を封じ込めて、とろりと熱に溶ける。
こんな感覚がどうしてか幸せな夢のようだった。
とても現実的じゃない。
このシーツも柔らかなベッドも布団も、温かな誰かの存在も、全ては本当の現実とは違っているから、これは夢だと思った。
だって自分は一人のはずだ。
だから誰かの腕の中にいるはずはない。
これは都合のいい夢だ。
しっとりと唇に柔らかくて温かい感触を得て、次の瞬間にはそれが咥内に侵入していくのを感じた。
体や想いがこのまま優しく暴かれていくようで、その感覚にまだ頭がぼんやりとして働かない。
気持ちがいい。
でもこんなに都合のよい夢はやはり否定すべきものだと思ったから、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
夢から醒めて、現実に返らなければ、虚しくなってしまう。
「…おはよう、麗奈さん」
「……」
そっと目を開いてゆっくりと焦点を合わせれば、ゴールドの瞳が目に入ってこちらをじっと見つめていた。
あり得ない光景に頭が上手くは働かない。
思考回路と、その視界が一致しない。
この人は、確か。
その問いの答えにはすぐに辿り着くが、それでも分からなかった。
この人は。
「辰巳さん……?」
何故だろうと思う。
考えようとして頭がずきりと痛んだ。
それを心配したのか、彼は柔らかく頬を撫で上げる。
「大丈夫?」
思い出そうとして、やはり頭が痛む。
こんなことはあり得ない。
これは夢。
「辰巳、さん…」
確認を繰り返しても、自分がもう眠っているはずはなくて、目覚めていて、傍にいるのはやはりその人に間違いがなくて、それでも今の状況を読めなくて、その人は静かに自分をそのゴールドの瞳で見下ろしてきて、問うようにしている。
自分には何も答えられず、嫌な予想しか立たない。
自分が何も身に纏っていないのは先刻承知だ。
触れるシーツの感触から本当に何も身に着けていないことがまざまざと分かる。
頭がずきりと痛んだ。
額を抑える。
ぼうっと見やりながら、どう見てもその人だって服を着ていない。
そんな風に見える。
筋肉質な体が視界の端に映る。
それなら答えは一つだ。
これはやはり夢だった。
こんな場所は知らない。
これは自分の部屋ではない。
自分のベッドでも布団でもない。
何でもない。
そして、この人とそんな関係になった覚えもない。
これからそのようになるつもりもない。
そんなこと言わなくても当たり前だった。
だから、頭が痛くて、もう一度きつく目を瞑った。
布団を念のために手繰り寄せ、視界を遮る。
眠りたいのに、思考してしまう。
頭が上手く働かなくて、半分はパニックを起こし掛ける。
だってやっぱりこれは現実だ。
そんな、気がする。
覚えている記憶を引き出してみても、そうだった。
お酒を一緒に飲んだ記憶しかなかった。
そこからの記憶から、全て飛んでいた。
いつ店を出たのか、そもそも店で何を話して何をして、本当に、何もかも覚えていない。
不味い、と思った。
こんなこと、本当に。
ぐるぐると頭の中が渦巻く。
このまま眠って何事もなかったかのように、自分のベッドで目覚めていますように。
「おやすみ、麗奈さん」
幻聴のように、そう耳に谺して、もう無視できなくなった。
柔らかく体ごと引き寄せられ、抱かれ、他者と素肌が触れ合い、温められる。
布団をすっぽりと被せられ、包まれる。
一瞬きゅんと胸が締め付けられて、幸福を感じた。
それでも受け入れるわけにはいかなくて、離れて、勢いよく起き上がっていた。
頭を振る。
もうこれは現実だ。
とんでもないことをしてしまった。
隣の彼は驚いた表情をして見上げてくる。
辰巳さんだ。
昨日話したままの彼がそこにいる。
服は着ていない。
頭が痛い。
布団を手繰り寄せ、体を見えなくする。
視界も遮る。
どうにも今の辰巳さんは妖艶すぎる。
そして、体にもはっきりと、違和感を感じ取っていた。
最後までしてしまったのだろうか。
きっと、そうに違いない。
この人は酔い潰れた私を抱いたのだ。
唇を引き結ぶ。
本当に今宵限りの関係を結んでしまった。
嫌悪感に心が苛まれる。
どうして、こんなこと。
「起きる?まだ大分早いけど」
辰巳さんも起き上がり、ベッドに座り込む。
確かに外はまだ薄暗そうだった。
掛かっていた布団が辰巳さんの身体から滑り落ちる。
引き締まったその胸に頬が熱くなる。
あり得ない。
あり得ない。
本当に抱かれたのか。
こんな人に?
自分が?
どうして。
どれだけ物好きなのか、それとも単なる気紛れか性欲処理か。
全部嫌だ。
唇を更に強く引き結ぶ。
「仕事は休みのはずだろう?」
「……」
そう。
今日は休みだった。
休日の朝はゆっくりとする方だ。
普段なら起きずに二度寝をする。
自分の家であれば、だが。
ここは他人の家。
しかも想像通りなら兼正のあの屋敷ではないのか。
辺りを窺ってもそれらしくて仕方ない。
高価そうな調度品が並ぶ。
このベッドなんてクイーンサイズなのではないか。
天蓋付きベッドなんて初めて見た。
こんな場所で、本当に?
夢ならよかった。
夢なら笑い事で済んだ。
幸せな妄想だった、と。
「それとも何か用でも?」
依然と辰巳さんは話し掛けてくる。
そっとその瞳を覗き込む。
綺麗な瞳だった。
見惚れてしまう。
そのまま辰巳さんは私の頬に手を添えて、真っ直ぐに見上げさせる。
その瞳に射竦められると頭が更に働かなくなって、状況に流されてしまいたくなる。
自分は何の記憶もない。
でも体がきっと覚えている。
そのまま、顔を近付けてくる辰巳さんを振り払えずに、唇をまた重ねてしまっていた。
頭は覚えてはいなくても、体は覚えているのか、どこかぼうっとして、体が熱くなってきて、じわりと蘇ってくる感覚を感じていた。
体に残る違和感が主張する。
否定しても、もう頭では分かっていた。
合わされる唇は柔らかくて、甘い。
もう一度、と請うように、見つめれば、辰巳さんは薄く笑っていた。
その様子すら綺麗で堪らなくなってくる。
「…かわいい」
そんな風に呟くように言われた言葉も直接頭の中に揺さぶりを掛ける。
魅せられてしまった。
一目見た瞬間から、きっと。
そっと抱き寄せられて仕切っていた布団もなく、暖かな素肌が互いに触れ合って重なり合う。
人肌が心地いい。
心臓が煩く鳴って、これがあってはならない現実だと思い知らされる。
もう一度唇を合わせられそうになって、受け入れたいと思った。
流されるまま。
しかし、そのゴールドの瞳が一瞬紅く瞬いた気がして、目を見開いていた。
そのまま思い切り彼を突き飛ばしていた。
慌てて布団を引き寄せ、辰巳さんを睨め付ける。
責めるような、そんな目を向ける。
自分にも非があったに違いないが、それでも彼が悪い。
初対面の男の前で酒に酔い潰れたのは確かにどうかしているとは自分でも思うし、反省してもし足りないが、それでもこんなことをしてしまうなんて。
普通手を出すだろうか。
こんな人だったなんて。
それでも自分が悪いのも本当は分かっている。
それでも責めずにはいられない。
どうしてこんな。
不味い。
不味い。
「麗奈?」
優しく問い掛けられる。
答えている暇もなく自分の服を探す。
見つからない。
「もしかして、これ?」
辰巳さんはきょとんとしながら、脇に置いてあったのか、きちんと畳まれた服を差し出していた。
私の服だ。
奪うようにそれを手繰り寄せていた。
どうしてこんなに綺麗に畳まれているのか。
腕がふるふると震えていた。
羞恥からか、怒りからか、もうそれは分からない。
思わず辰巳を睨み付けていた。
下着まで、こんな。
堪らない。
耐えられない。
こんなことは、あってはならなかった。
布団を手繰り寄せて、辰巳さんからも目を逸らし、視界に入らなくさせる。
手早く服を着てしまおうと思って、下着に手を掛ける。
辰巳さんはそのまま放っておいてくれるのかと思いきや、背後から抱き締めてきた。
空気を読んで欲しい。
すぐさまこの場からは離れて、なかったことにしてしまいたいのに。
昨日の状況から考えれば(記憶は全くないに近いが)、それでも昨日一緒に飲んでいた人たちは自分たちのことをどう思っただろう。
たぶん辰巳さんは私を連れ帰ったはずだ。
そんなような噂が村中を流れてしまえば、先生も私を尾崎医院の仕事に関しては首にせざるを得ないかもしれない。
先生にも迷惑を掛けてしまいかねない。
まだ恩も返せてはいないのに。
こんなことになってしまうなんて。
泣きそうになる。
まだ辰巳さんは自分を強く抱き竦める。
「…昨日は、とてもよかったよ」
耳元でそっと息を吹きかけるように囁かれ、体が小さく震える。
自分は全く覚えていないのに。
どうして酔い潰れたまま放って置いてくれなかったのか。
こんな場所に連れて行くなんて。
「っ……離れてください。
申し訳ないんですけど、私には記憶がありません」
顔だけを辰巳さんに向けてそう言う。
辰巳さんは少し驚いたようにしていた。
「本当に何も?」
そのまま、はっきりと頷く。
覚えていたならまだマシだったかもしれない。
自分は何をしてしまったのか。
本当に何も思い出せない。
ずきりと頭が痛む。