徒言
□幻影楼V
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紫黒の闇が広がる地下の格子牢。
天井近くの小さな嵌め殺しの窓から見える空は、同じように暗い闇に覆われている。
時間の感覚が狂う地下の牢では、あの小窓から見える空だけが、昼夜を知る唯一の手段だった。
漫然とした時の流れに身を委ねながら、名無しさんは冷たい床の上に躰を横たえていた。
底冷えのする如月の夜。
薄い一重の着物から覗く手足は、血も通わないかの様に真白だ。
不意にその白い手をついと滑らせ、それを支えに、名無しさんは痩身を起こした。
微かに揺らいだ空気の中に、血の臭いを感じ取ったからだった。
ほどなくして、本館とをつなぐ木戸が開かれる。
現れた黒衣を纏う長身の男を見ても、名無しさんの表情は変わる事は無かった。
ここにやって来る者は限られている。
名無しさんの予想通りの男、この幻影楼の主人の腹心・背蓮茶闇(セバスチャン)だった。
彼の紅い双眸が燃えるような光を放っているのは“仕事”をして来た直後だからだろう。
「出なさい、名無しさん。若様がお怪我をなさいました」
低く艶を帯びた声が、静かな闇に染みるように響く。
「紫衣流(シエル)様が?」
名無しさんはそこで初めて、その小ぶりの顔(かんばせ)を曇らせた。
表情が無い訳ではないのだ。
寧ろ身の内に渦巻く邪欲を必死に押し止めている。
名無しさんが立ち上がって牢の扉に触れると、錠は自然に外れて落ちた。
天の御使い――人の能力を超えた力を持つ名無しさんには、檻など何の枷にもなりはしない。
その名無しさんをこの幻影楼に縛り付けているのは、目の前で冷たく自分を見降ろす男、背蓮茶闇に他ならない。
天の御使いとは相反する存在。
闇の底より生まれ出て、魔性の美貌で人を惑わせ魂を喰らう妖魔。
彼は名無しさんを生きたまま捕らえ、じわりじわりとその精気を喰らう事を楽しんだ。
今も衣の合わせの僅かな隙間を縫って、紅い視線が肌に突き刺さる。
それだけで名無しさんの躰は熱を帯び、その絹肌を薄紅に染めていた。
それを悟られぬように、平然を装って背蓮茶闇に付いて歩く。
通された座敷で、座した主人の前に膝を付いた。
「お手を失礼致します」
血の滲む彼の手を取り、袖を捲り上げる。
まだ十三になったばかりの華奢な子供の腕には、深い刀傷が無残に刻まれていた。
「あまり無茶をなさいますな」
名無しさんは身を屈めて傷口に唇を寄せる。
痛みを与えないようにそっと手を重ねると、傷口はゆっくりと塞がり始めた。
「ちょっとヘマをしただけだ」
その様子を淡々と見下ろしながら、紫衣流は言った。
「背蓮茶闇を従えていながら、この様な酷いお怪我……一歩間違えはお命に係わります」
「その方がいいんじゃないのか? お前も自由になれるだろう? ……いや、そうでもないか」
その通りだった。
たとえこの幼い主人が命を落としたとしても、背蓮茶闇が自分を解放するとは思えない。
それに…………。
「この真冬にそんな薄着で、さぞや身も冷えているかと思えばその熱。お前は寒さを知らない生き物のようだな」
真実には気付いていない紫衣流の言葉。
(違う、これは――――)
躰の火照りが頬にまで移り、名無しさんは俯いた。
振り返らずとも、背後の魔物が妖艶に笑みを浮かべているのが分かる。
人間の生き血を浴びた妖魔が次に求めるのは、激昂にも似た高揚を伴う淫事への陶酔。
それを名無しさんの身が、意思に反して待ち望んでいる事を、あの男は知っている。
一度堕ちた淫獄の闇から逃れる術など、ありはしなかった。
「他に……お怪我は御座いませんか……?」
声が震える。
「ああ、もういい。行け」
行け――――。
その声に押されて行く先は、淫欲の底無し沼。
汗の滲む手を握りしめて、名無しさんは立ち上がった。
一礼をして下がると、控えていた背蓮茶闇が傍らをすり抜けて紫衣流に近付いた。
「若様、汚れたお召し物をお取り換え致しましょう」
紫衣流の世話を終えたら、彼はやって来る。
ふらりとおぼつかない足取りで、名無しさんは戻って行く。
紫黒の闇の中へ。
今にも暴れ出さんとする狂おしい熱を抱え、この躰は解放の時を待つ。
自分は、残酷で甘い蜜壺に堕ちた、一頭の蝶――――。
END