徒言

□幻影社担当S
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 郊外にある田畑に囲まれた、小さな一軒家。
 カラカラと音を立てる古い空調の音を聞きながら、正座をした名無しさんは男の言葉をじっと待っていた。

「今回はこれで良いと思います。この原稿はいただいていきます」
 黒いスーツに身を包んだその男は、手にした原稿用紙をトントンとテーブルで打って揃えながら、口元を緩めた。
 その言葉に名無しさんは胸を撫で下ろす。今月の締切には、どうにか間に合わせられたようだ。
 セバスチャンという名のこの男は幻影社の編集部の者で、今年から作家である名無しさんの担当になった。
 初めて彼を見た時は、余りの洗練された美しい容姿と優雅な物腰に、どこかの貴族かと思った程だ。
 まっすぐな黒髪と細いフレームの眼鏡が、クールな彼のイメージをより印象づけていた。


「この後、主人公の女性は意中の男性と結ばれる予定ですか?」
「はい。次回でそうなる予定です」
「そうですか……」
 どこか歯切れの悪いセバスチャンの言葉に、名無しさんは不安を覚えた。
「悲恋で終わらせた方がいいと思いますか?」
「いえ、そういう訳ではありません。これまでの貴方の作品を全て読ませて頂きましたが、恋愛要素が絡むシーンになると、どうもリアリティに欠けるように思えるのです」
「リアリティ……ですか」
「ええ、他の部分の表現は素晴らしいだけに、残念です。そこだけが恋愛を知らないウブな子供の作品のようで……」

 図らずも図星を指されて、名無しさんは赤面した。予想外の名無しさんの反応に、セバスチャンは目をしばたかせる。
「まさか……本当に……?」
「いえっ……あの……」
 うろたえる名無しさんを面白そうに見つめると、セバスチャンは眼鏡を外して膝を詰めた。

「なるほど。清らかな天使は醜い肉情などとは無縁でしたね」
(――え!?)
 名無しさんの鼓動が大きく跳ねた。
(この男は、私の正体を知っている!?)
 見開かれた名無しさんの目を見て、セバスチャンはくすくすと笑う。

「天使と言うのは例えですよ。そのように純粋だという意味です」
 そう言われても、名無しさんの動揺は治まらない。眼鏡を外した男の目を間近で見て、ようやくそれに気がついた。

 ――紅い!!

 まさか……。
 まさか、この瞳は……っ。

 目の前まで迫ったセバスチャンは、両腕を開いて石のように固まった名無しさんを包容した。
 長い腕を背中に回されて、胸の中に引き寄せられる。
「何を……っ」
 慌てて離れようとしたが、優しく抱いているように見える腕は、思わぬ力が込められていて外れなかった。

「小説の素材集めに協力しているのですよ。これが貴方の恋人の腕だとしたら、どうですか?」
 肩口で囁かれる低い声は、鼓膜を通して全身に染みてくる。
「急に……そんな事……」
 これまでのクールで端的な口調を一転させ、甘く官能を思わせる声で名無しさんを誘う。
 背中に触れる手のひらが、腰へと滑り降りた。
「感性豊かな貴方なら、それくらいの空想は容易いものでしょう? 今、貴方を抱くのは、愛おしい男の腕です。清らかな唇に罪を移すのは、禁忌と知ってなお、焦がれてやまない罪深い唇……」
 呪文のような言葉と共に、唇が重なった。
 流れるような動きで舌が入り込んで来る。
 体の奥に眠る熾火が、パチリと音を立てた。

「ふ……ん……」
 背筋を這い上がる痺れに翻弄されながら、必死で自分を保とうと抗った。
 この男が自分の予想通りの生き物だとしたら、流されてはいけない。
 甘言と欲で獲物を惑わし、破滅へと導く、天使の敵。
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