徒言
□ホストクラブ
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黒を基調としたシックな店内に流れるのは、落ち着いたクラシック。
繁華街の喧騒を避けて離れた場所に店を構えるここは、知る人ぞ知る高級ホストクラブだった。
クラブの名前は『ファントムハイヴ』
政界の大御所や上流階級の婦人だけが集うファントムハイヴでは、今日も上品なさざめきに包まれていた。
店内のBGMがフェードアウトし、タナカさんがヴァイオリンを奏で始める。
途端に皆の羨望の目が、そちらに集まった。
誰かがドンペリニヨンを入れたのだ。しかもこの音色は、このクラブで最高級のゴールドの物。
安月給のサラリーマンなら、給料の一年分は軽く飛ぶ。
こんなオーダーを取れるのは彼を置いて他にいない。
名無しさんが目を向けた先には、予想通りの人物、このクラブのナンバー1ホストのセバスチャンが優雅に微笑んでいた。
客の婦人は誰かと見ると、驚いた事に『ドルイット子爵』という異名を持つ、アレイスト・チェンバー。世界中に支店を持つドルイット銀行頭取の息子だ。
芸術を愛する美食家として有名で、かなりのフェミニスト……悪く言えば女好きだ。
その彼がなぜホストクラブに居るのかと思ったが、隣を見て合点がいった。
妙齢の可愛らしい女性を連れている。きっと彼女にねだられて、一般市民ではとても入ることの出来ないこのクラブへ連れてきたのだろう。
そのサービス精神には脱帽する。
セバスチャンが、フィニアンの運んで来たシャンパンを受け取り、微笑を浮かべて女性のグラスへ注いでいる。
奥で空いたテーブルのグラスを下げている名無しさんにも分かるほど、彼女は顔を赤らめて見惚れていた。
「やっぱり、セバスチャンさんは凄いですだ……」
そしてここにも、彼に見惚れている者が一人。
「リン、今はあなたはホストでしょう? 男に見惚れていないで下さいね」
名無しさんはくすりと笑って、下げたグラスをシンクへ運ぶ。
「分かっていますだ」
プクリとむくれてついて来るメイリンは、ファントムハイヴでナンバー3のホストで、実は女性だ。普段のツインテールを一つに纏めて眼鏡を外し、メイクを変えると見事に男に化ける。
リンという源氏名で、中性的なあやふやさが人気だった。
「おう、このデザートを頼む」
厨房に戻るとコックのバルドロイが、綺麗に盛られたフルーツの皿を差し出した。
名無しさんが受け取ろうとすると、オーナーのシエルが現れた。
「それはリンに任せろ。名無しさん、ドルイット子爵がお呼びだ。行け」
「子爵が私を?」
言われた通りにテーブルに着くと、場がワッと沸いた。
「あなたがナンバー2の名無しさんね。可愛らしい子」
アレイストの隣で、女性が上機嫌に微笑んでいる。
「ありがとうございます」
名無しさんが彼女のグラスにシャンパンを注ごうとすると、やんわりと止められた。
「私はもういいの。ほら、セバスチャン?」
「僕の雛菊のお願いを聞いてあげてくれるかな? 君たち」
芝居掛かった仕草で、アレイストが髪をかき上げた。
「お嬢様があなたに、シャンパンをプレゼントして下さったのですよ」
キョトンとしている名無しさんに、セバスチャンがにっこりと笑った。
「ゴールドを開けると、何でも一つ、お願いを聞いてくれてる特典があるんだろう? それを僕の雛菊が君へのプレゼントに使ったのさ」
「私に…ですか? ありがとうございます」
名無しさんは笑顔を浮かべて礼を言った。
「では」
そう言ってセバスチャンがシャンパンを口に含む。
何をしているのか理解する間もなしに、名無しさんはセバスチャンに顎を取られて上を向かされた。そして、そのまま唇を塞がれる。
驚いて緩んだ唇の間から、人肌のシャンパンが流れ込んで来た。
続いてこじ開けた舌が侵入する。
思わずシャンパンを飲み込んだ名無しさんは、ようやく今の自分の状況に気付いて慌てた。
「ん……ふ、う……」
ぬるりとした舌が歯列をなぞり、名無しさんの舌を絡め取る。口腔を自在に蹂躙され、角度を変えて何度も口付けられると、腰が痺れて力が抜けた。
「う……んんっ……っ」
皆の見ている前で、貪るような激しい口付けが続く。
彼の上着を掴んでもがいても、背中をホールドするセバスチャンの腕は外れなかった。
頭がくらくらとし始めた頃になって、ようやく名無しさんは解放される。セバスチャンに縋って、顔を上気させたまま喉を喘がせた。
「これでいかがでしょうか? 雛菊のお嬢様」
「素敵! 素敵だわ、セバスチャン。美しい男の人がとろりとする姿って、とても綺麗よ」
「う〜ん、君が女の子なら僕がしてあげたんだけどね、名無しさん」
「あ…あの……。ご婦人のお願いとは…?」
ようやく一人で立てるようになった名無しさんが、身を捩ってセバスチャンから離れた。
「あなたに口移しでシャンパンを飲ませてって、お願いしたのよ」
とんでもないお願いの犠牲になった名無しさんは、先ほどの彼女よりも赤面させていた。
「すみません、少し失礼します」
皆の視線を一手に受けて、名無しさんは逃げるようにその場を離れた。
「名無しさんさんだって、人の事、言えないですだ」
メイリンにそう責められたが、ただ見惚れるのとこれとは、レベルが違う。
それに、去り際、こっそり耳打ちされたセバスチャンの言葉が、その日はいつまでも名無しさんを動揺させ続けていた。
『続きは…お仕事を終えた後でね』
END