徒言

□幻影楼
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 朱塗りの柱に、粉おしろいの匂い。
 艶やかな遊女達の白い手が誘う通りを一本裏手に入ると、其処には古くから店を構える、どっしりとした茶屋・幻影楼(ファントムハイヴ邸)があった。

 老舗の幻影楼の高い敷居を跨げるのは、一部の権力者や裕福な大商人だけ。一般の町人等は、門前を歩く事すらはばかられ、皆が足早に通り過ぎた。


 大地主の屋敷ほどもある幻影楼の奥まった一角、太い格子のはまる牢から、紅い朧月を見上げる一人の青年がいた。
 青鈍色に染められた着物の上を這う、麻縄の戒め。胸元を上下に通って上腕を固定し、背中では後ろ手に縛った手首とを繋いでいた。
 白く細い手首に、ざらついた縄目が無残に食い込んでいる。

(いつまでもこんな所には居られないな…。やはり一度抜け出すか)
 人ならざる身の名無しさんにとって、この程度の檻などは、何の意味をも成さない。名無しさんが音もなく立ち上がると、華奢な躰をきつく締め付けていた縄は、ひとりでに弛んで落ちた。

 その時、ギイと軋み音を立てて、屋敷と牢屋を繋ぐ木戸が開いた。
 名無しさんはハッと身を緊張させて其方を見る。
 入ってきたのは、幻影楼の主・紫衣流(シエル)と、その腹心・背蓮茶闇(セバスチャン)だ。

 ここに捕らわれた時、名無しさんは初めて幻影楼の主を垣間見たのだが、まだ年端も行かぬ子供である事に驚いた。
 右目に眼帯をした隻眼の少年は、名無しさんの足元に落ちた縄を見ると、小さな唇の両端を三日月型に上げて微笑した。

「ほう……、もう逃げる算段か? 油断も隙もないな。町役人がこの幻影楼を嗅ぎ回って、何か見つけたか?」
 澄んだ子供の声に不釣り合いな凄み、表情もさることながら、相手が子供である事を忘れてしまいそうになる。
 気圧されるまいと、名無しさんは拳を握り締めた。
「……ええ、ただの茶屋にしては堅固な屋敷構え、手練れの奉公人達、焦臭い煙が充満しておりますね」

 幼い主の軽快な笑い声が響いた。
「元よりここは、男色を売る秘館。ただの茶屋でない事くらい、お前にも判っていよう」
「それだけではありません。もっと奥深い闇が、この幻影楼には漂っているようです」

 名無しさんの言葉に、紫衣流の眼光が鋭さを増した。
「無用な侠気に駆られてこの館に手を出したお前の愚行、せいぜい後悔するがいい。背蓮茶闇、後はお前に任せた。好きにしろ」
 そう言って紫衣流が去った後には、全身を黒い衣に包んだ長身の男、背蓮茶闇が残された。
 この男は名無しさんを捕らえて、ここに押し込めた人物でもある。
 細い柳眉の下、紅い双玉を嫣然と細め、檻の鍵を外した背蓮茶闇が入ってくる。
 名無しさんは思わず後ずさった。

「お察しの通り、この幻影楼はただ男色を売る色子を置くだけの店ではありません。裏世界の秩序と呼ばれる我が主…。その名の通り、犯罪を見逃すも取り締まるも、若様のお心一つなのです」
「やはり……都で起こる犯罪の裏には、この幻影楼が関わっていたのですね」
 退く幅がなくなり、踵が背後の壁に当たった。
「それに、そんな風に秘密を明かすとは……」
「ええ、貴方をここからお返しするつもりはありません」

 追い詰められた獲物の怯えを楽しむように、背蓮茶闇はわざとゆっくり近付いて来る。名無しさんの頬を冷や汗が伝った。

「なぜ貴方のような方が、一介の町役人などをされているのでしょうね?」
 間近で覗き込まれて、名無しさんはようやく気がついた。この背蓮茶闇とか言う男も、人ではない。
「私を……殺すのか…?」
「そのような勿体無い事は致しません。貴方は稀有なる神の御遣い。その清らかな霊魂と穢れを知らぬ躰は、私のような妖魔には、極上の好餌なのですから」

 襟の合わせの間から、妖魔の手が滑り込み、しっとりと汗ばんだ名無しさんの肌を撫でた。
「ちょうど魂に飢えていた所なのですよ…。貴方が従順であれば、命までは奪いません。私が飼って差し上げます」
「…飼…う……?」

 名無しさんは身じろぐ事さえ出来ず、緋色の双眸を見つめた。

 深い闇――。
 もがく程にその身を沈める、淫欲の底無し沼に、名無しさんは自ら足を踏み入れてしまっていた。
 歯列の奥で、妖魔の紅い舌がヌラリと動く。


 幻影楼の夜は始まったばかり――。
 笑いさざめく華やかな表舞台の裏で、人知れずか細い苦悶の声が響いた――。


END

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