徒言

□僕の天使さん
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 世の中には様々な生き物がいるが、こいつほど妙な奴はいないだろう。
 シエルは執務室で溜まった課題をこなしながら、チラリと顔を上げる。
 そして、花瓶の花を換え出しっ放しの資料を片付け、忙しく動き回っている燕尾服の背中を見た。

 十七、八歳のただの少年にしか見えない名無しさんだが、これでも天使だ。
“悪魔に捕まったマヌケな”という修飾語が付くが。

 束ねた資料を持って書庫へ向かおうとしたその名無しさんをシエルは呼び止めた。
「ついでにドイツ語の辞書も持ってきてくれ。ロングマン社のやつ」
「はい、分かりました。今すぐ」
「それから先月うちから出たばかりの、ハニーミルクキャラメルも」
 そう付け加えると、名無しさんがふぅと息を付いた。

「セバスチャンに叱られますよ。先ほどケーキを召しあがったばかりなのに」
「頭を使うと甘い物が欲しくなるんだ。見ろ、今日中にこれだけの課題をこなさなければならない。先週はお披露目式やら市場調査やらで、あっちこっち引っ張り回されたからな」
 大げさに疲れた顔をしてみせると、名無しさんは困った顔をしながらも笑みを浮かべる。
 そして軽く頭を下げて部屋を出て行った。

 しばらくして名無しさんが戻ってくる。
「ご所望のドイツ語の辞書とキャラメルです。そして温かいミルクもどうぞ。あまり根を詰めるとお体に毒ですから、少し休憩なさいませんか?」
 前に置かれた湯気の立つミルクを見てシエルは微笑んだ。

「お前、本当に僕には甘いな。お前こそセバスチャンに怒られるぞ」
「ええ、ですから内緒にしておいて下さいね」
 こっそりと悪戯をする子供のような顔で笑うのを見ていると、こっちまで愉快な気分になる。
 しかし悪魔に内緒だと言ってこんな顔をする天使がどこにいると言うのだ。
 それに……。

「お前は、そんなに僕の魂が大切なのか?」
 自分のために死んだ弟の生まれ変わりだとかで名無しさんはシエルを大そう気にかけているが、シエルとしては全く実感が持てない。
 前世で兄弟だと言われて、まず普通の人間はそうだろう。

「最初はそうでしたけど、今ではシエル様ご自身の事も大切です。私がお世話する事で、少しでも安らいだ時間を過ごして頂けたらと……。私はシエル様が好きなのです」
 ふわりと、柔らかく空気が揺れる。
 天使の微笑。
 微塵の邪気も孕まない純粋無垢な笑みが、そんな突拍子もない事を信じさせてしまうのだ。

 シエルはキャラメルを一つ口に放り込むと、テーブルに肘をついて、その手の上に顎を乗せた。
「“好き”……ねぇ……」
 柔らかい名無しさんの笑みには癒させる。
 しかし同時に、あまりにも純粋過ぎてからかいたくもなる。

「セバスチャンの事も“好き”だから傍にいるのか?」
「……え?」
 硬直した名無しさんの手から、銀のトレイが滑り落ちて激しい音を立てた。
「おい!」
「すっ……すみません! セバスチャンは、あ、あの……っ、好きとかそう言うのでは……そのっ……」
 慌ててトレイを拾う名無しさんは、耳までが真っ赤だ。
 ずいぶんと長くここに居るのに、たった一言に対してよくまぁまだこんなにウブな反応が出来たものだと感心する。

 この騒音を聞きつけてやって来たセバスチャンに、結局は余計な間食がバレる羽目になる。

 二人して小言をくらいながら、自分への“好き”とセバスチャンへの“好き”はそんなにも違うのかと、未だ顔を赤くしている名無しさんを見ながら、シエルは込み上げる笑いを堪えていた。


END

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