戯作

□神の身体
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息はひどく乱れ、心臓はばたばたと暴れている。
けれど走れと本能が命じていた。
走らなければ。
走らなければ。
頭の奥で何万もの蜜蜂が飛び交っている。
不意に目に飛び込んできた背中に縋り付いた。


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ぱっと目を開けた時、そこは自分の家ではなかった。
ヤカンのケトルが鳴る音と足音、一瞬の後の静寂。
寝かされていたベッドを降りて、ベッドサイドに置かれていた仮面を着け、部屋を出る。
タンクトップとジーパンというラフな格好で歩き回っていた男と目が合った。
「気分はどうだ?」
「大丈夫です。…助けて下さって、ありがとうございました」
「助けついでに朝飯は食えるか?和食なんだが」
「あ、はい。頂きます」
男はてきぱきと二人分の朝食を用意すると、自分だけ先に食べ始めた。
「何ぼうっと見てんだ」
早く座れと言われたのだと解釈し、慌てて男の前に座り、箸を取った。
「お前、名前は?」
「え?」
「だからお前の名前を聞かせろっつってんだ」
男は苛々と繰り返す。
「春日宮祈と言います。貴方は?」
「邑神秋流」
二人は黙々と食事をしていたが、祈は先に食べ終え、出ていく支度を始めた。
「どこ行く気だ」
「お世話を掛けましたが、僕は逃げなければ」
「どこまで?」
「え…?」
「逃げて逃げて、終点はあるのか?」
祈は口籠もった。
「お前の顔の疵な」
祈の手が、顔の左半分を覆う仮面に触れた。
「病じゃないな」
断定的な秋流の口調。
隠せずに頷く。
「お前がそれで良いなら俺も介入しない。けれどお前はその疵に触った時、憎しみしか宿していなかった。辛いんじゃないのか?」
「…辛いです。辛くて辛くて仕方ない。痣だけじゃあない、逃げるしかできない自分も、いつまで逃げ続ければ逃げ切れるのか解らないこの生活も辛い。助けてほしいんです…」
祈の肩が微かに震える。
「俺には何の力も無いから言い当てるしかできない。だが…先生なら、うん、先生の所に行こう」
秋流は勝手に納得し、街灯を羽織ると祈の手を引っ張ってマンションを出た。
そして貸し駐車場に停めてある、目に眩しいほどに黄色い車の助手席に祈を押し込み、自分はエンジンを掛けて車を急発進させた。
祈はその運転の荒さに青ざめたが、秋流は楽しげに鼻歌を歌っていた。


凄まじいスピードで車を三十分ほど走らせた所にある閑静な住宅街の一角に、それはあった。
日本家屋的豪邸。
門の表札には、個人名の代わりに『久慈院』と書かれている。
「何ですか、ここ?」
「孤児院、みたいなとこ」
秋流はさっさと門を潜り、祈にも入るよう促す。
そして石畳を飛び飛びに、がらりと戸を開けた。
「市さん、いるかー?」
声は壁に吸い込まれる。
ややあって、オレンジ色のエプロンを掛けた裸足の男が現れた。
「秋流じゃねぇか。滅多に連絡も寄越さないくせにいきなり来やがって、何の用でェ」
怒っているような口調だが顔は笑っていて、秋流の訪れを喜んでいた。
「来て早々説教は止めてくれよ、市之助先生。道満先生に相談があるんだが、いらっしゃるか?」
「ああ、晴耶に琵琶教えてンぜ。相談てなァそのちっこいのの事か?」
「そうだ。至急なんだ」
「解った、上がれ」
許されて二人は靴を脱ぐ。
何間も座敷があり、襖が開け放たれている。
子供だけでなく大人もかなりいた。
「物珍しそうだなァ」
「ええ…」
「ここで育った子供はな、大人になってもここで暮らしたがんだよ。それなりに収入もある良い年した大人が、夏熱くて冬寒い糞みてぇな家を恋しがる。まあ己れもその一人なんだけど」
最奥の、弦楽器の音の聞こえる座敷に市之助は
「先生、入りやすぜ」
と声を掛けた。
中には琵琶を抱えた千鳥模様の着物の男と、神妙に正座をしている少年がいた。
「何だい?」
「秋流が相談があるとか申してやす」
「そうかい、じゃあ済まないけど晴耶、続きは後で」
晴耶は礼をして去った。
「祈、この人が道満先生、芦屋道満さんだ。本業が琵琶の先生、家業が久慈院の院長で稼業が陰陽師の…」
「変態です」
本人が後を引き取る。
祈は道満から、何だか不思議な印象を受けていた。
年令がよく解らない。
市之助と同年代にも、初老にも、或いは祈と同じくらいにも見える。
ただ一つ解る事は、久慈院の雰囲気はそのまま道満の雰囲気だという事だった。
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