□絵の中のひと
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「なつきぃ、帰ろうぜ」
 声をかけてきた友人の小笠原の顔を一瞥して、私は端的に答える。
「ん〜部活」
「ええ? 今日もかよ。そんな毎日行くような部活でもなくね?」
 私が部活、と答えると小笠原は不満そうに頬を膨らました。男がやっても可愛くない、っつーの。
「うっさいなァ、いいじゃんアンタは帰りなよ」
 話しかけてきた友人の文句を振り払い、カバンを手にかけて下駄箱とは反対方向にさっさと私は歩き出した。



 美術室の扉を開く。
 キャンバスに色を描く後姿が、落ちかけた夕日のせいで、眩しい。その後姿がゆっくりと筆を置くまで待って、声をかける。
「クドォ先輩」
 振りかえる、影。眩しくて、顔が見えない。
「ん」
 いらっしゃい、と言ってきっとその人は微笑んだ。

 カバンをそのへんに放って、先輩の隣まで歩く。キャンバスに横目をやりながら、私は口を開いた。
「皆はまだですかね?」
「んー今日は休みかなあ」
 キャンバスから少し目線をずらせば、先輩の横顔が目に入る。
「今日も、休みですか」
 も、を強調して言ってみたが、相変わらず先輩は微笑んでいるだけだから多分気にしてないんだろう。部員が来ようが来まいが、自分の世界に没頭出来れば先輩はそんなこと、どうでもいいのかもしれない。
 大体が、この学校の校則で必ず部活に入らなければならないきまりだから仕方なく入っているというだけで、美術部はほとんど帰宅部希望者の逃げ場として認識されているのだから、諦めも入っているかもしれないが。
 まあ、つまりはこの美術部、幽霊部員の巣窟ということだ。
 たまに来ている人はチラチラ見かけるが、毎日と言っていいほど足しげく通っているのは私と先輩以外に見たことがない。その中でもキチンと美術部らしい活動をしている人となれば、私は除かれるから先輩ひとり。
 どんな部なんだ、とたまに思う。
 先輩は、部室に来るくせに絵を描かない私にも、絵を描けと指示したりしない。「描かないの?」と提案されたことすらない。
 筆を手にとって再び作業を始めた先輩の横顔を、じっと見入る。作業を続けている顔は真剣そのもので、きっと周りは何も見えていない。



「ああ、もう暗いね。電気、つけようか」
 気が付いたように顔をあげる、先輩。
 多分キャンバスが見えにくくなったから気づいただけで、明るいままだったならそのままあと何時間だって余裕で続けただろうな、と思う。
 この世界に、私はいらないのだ。居ても居なくても、同じ。
 それは寂しい気もしたけれど、嬉しい気もした。

 まるで、絵に恋してるよう。
 ……先輩を見て、私はよく、そう思う。

「せんぱいは」
「……うん?」
 先輩は私の言葉に反応したけれど、その手は筆を置きはしない。
「絵の中のひとみたい、ですね」
「え? そんなの、初めて言われたなあ」
 先輩は、愛しそうな顔で、懐かしそうな顔で、切なそうな顔で、絵の中を眺めるから。その中に入りたいとでも言うように、鉛筆を、筆を、走らせているから。
「先輩のほんとの居場所は、絵の中なんじゃないかな、って思うんです」
「はは、そうかも。案外間違ってないかもしれない」
 先輩は笑った。

 暗い外の景色に、ほんの少し残る紫とも赤とも言える僅かな色。
 細い光がまぶしくて、私は目を細めた。

 先輩の描く平面も美しい。
 けれど、現実もこんなに綺麗ですよ、先輩。

「でも、ここ(現実)も結構楽しいんですよ。絵の中、戻らないでくださいね」
「……うん、楽しい。それを知ってるから、俺はもうしばらくこの世界で生きるよ」
 冗談ぽく笑った先輩の手には、今は筆は握られていなかった。

「それは良かったです」





2012/08/03

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