ゆずの香

□ひとひらの幸福を
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「あんた、客を取るんだって?」

そのまま素通りしようとした背中に降ってきた声。
うげ、と眉を寄せる。なんだ、もうそんなに広まっているのか。本当に早いなこの店は。

頭を抱えたい気分で振り返ると艶やかな笑みが視界に入る。
うわあ、楽しそう。たいした娯楽もない場末の宿じゃ、他人の不幸くらいが数少ない暇潰しだもの。仕方がないと言えばそうだが、自分が当事者になってみるとやはり気分の良いものではない。

「まあ、適齢といえば適齢だものねえ」

「それが、何か」

知らず低くなった呟きに、姉さんは肩を竦めて首を振る。揶揄するように上がる口元。好奇を隠そうともしない視線にこちらの口角は下がる一方だ。

「皮肉なものよねえ、貞節を重んじるはずのこの国でも、女を買う男ってのは必ずいるんだもの」

「…………」

「まあ、おかげでこんなどうしようもない宿が流行ってるわけだけど。あんたも早いとこ諦めて腹をくくっちまいなよ。現実はそんなに甘くはないからね」


鈴を転がすように笑って、姉さんは去っていった。
一人廊下に残されたわたしの胸に去来する、複雑な感情は、なんだろうか。


「……」

吐いた吐息は少しだけ苦い。
解っていたはずだ。
いつか、必ず訪れるこの日のことは。
運命の騎士さまは、わたしのところへは来ないのだということも。


「大丈夫。解ってる。ちゃんと」

ぐ、と胸元を掴む。違う、これは感傷じゃない。
知っていたはずだもの。夢物語は、所詮夢物語でしかないのだと。
 
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