ゆずの香

□ひとひらの幸福を
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フォルティス王国、王都より北の山間部に位置するイシュワルド地区に、その店はある。


「フィオ!なにぼけっとしてるのっ、早く準備しな!もたもたしてるとお客さんが起きちまうよっ」

耳につく金切り声に背中を押され、ハッと我に返って止まっていた身体を動かす。

宿の朝は早い。
朝食の準備をしてたまった汚れ物を洗って、お客が起きた後は部屋の掃除、少ししたら夜にお客の相手をした姉さん方を起こして回る。

女将に小言をもらい、主人にもたもたするなと詰られ、姉さん方の気まぐれなささやきを右から左に流しながら宿の中を走り回る。
あまり覚えてはいないが、三つの時分に宿に売られて十年以上、ずっと下働きとして働いていれば周りの意地の悪い小言さえも生活音として認識してしまえるから不思議なものだ。


「あ、フィオ。探してたのよ」

「ラン姉さん」

「風呂沸かしといて。寝汗かいて気持ち悪いの」


甚だ空気を読んでいない姉さん方のわがままにも慣れたものだ。こっちは肩で息をしながら走り回っているのが見えないのか。

内心でため息を吐きながらも了解すれば、姉さんは頼んだよー、と暢気に手を振って去っていく。

その後ろ姿に今度は大きくため息を吐いて、たまった仕事をこなすべく再び身体を動かした。
 
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