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□了承と了解
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「…寝てる」
 
 
音を立てず近づくことに成功したわたしは、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。ソファーに深く腰を掛けながら、枢は眠っていた。その証拠にさっきからぴくりとも動かない。珍しいこともあるものだ、と思った。
 
 
(…きれい)
 
 
唇から、ほぅ、とため息が漏れる。
 
わたしは、眠る兄の無防備な表情に見入った。寸分の狂いも無く整った顔は、いっそ、人間離れしているように思える。当たり前だ。彼はヴァンパイアなのだから。すっと通った鼻筋も、薔薇のような唇も、固く閉じられた瞳でさえ、全てがこの男を尚更彫刻めいて見せる。
 
 
美しい、と思った。
 
 
こんな麗人に愛を囁かれたら堕ちない女なんていない。優しい仮面を被っていたら殊更だ。
 
優姫だってそうだろう。妹が今どうしているのか、詳しくは知らないけれど、でも、彼女にしたってきっと、枢魅力の前ではひとたまりも無い、と思う。
 
 
「…優しくしてくれればいいのに」
 
 
しん、とした部屋に呟きが吸い込まれていく。
 
悪魔のように美しいこの男を好きになるのは容易い。わたしは枢の本質を知っているから惚れるなんてあり得ないけれど、普通の人間が、少しでも微笑みを向けられたら、まず間違い無く囚われる。
 
 
「…」
 
 
ーー枢は、わざとやっているのかもしれない。
 
ひょっとして。囚われた思考を僅かに回転させる。枢は、優姫の代わりでしかない純血が自分に本気にならないように、無遠慮に欲望を、わたしにぶつけているのではないだろうか。
 
純血の執着ほど醜く面倒なものは無い。それは立証済みの事実だ。…でも、ちょっとやそっとじゃ純血種は死なないから、飼い殺しするには便利なのだと思う。そして後腐れ無く切り棄てるのに、わたしは丁度良い。
 
 
「…報われないのね」
 
 
ぽつりと呟いた言葉は誰に拾われることもなく消えていった。
 
枢が寝入っていることに安堵の溜息を漏らし、わたしはもう一度ベッドへ戻ろうと決める。どうかこのまま、枢が眠っていますように。小さく祈りながら進めた足先にひんやりとした床の質感が伝わる。
 
ところが、半歩も進まないうちに、突然、何者かに手頸を掴まれた。
 
 
「!」
 
 
びっくりして、振り返ろうとしてバランスを崩した。視界が反転する。壁から天井へ、眸に映る景色がぶれていって、紅い双眸と目が合ったかと思うと、次の瞬間目の前が真っ暗になった。
 
 
「わっ、」
 
 
驚きの声を発したのと枢にぶつかったのと、どっちが早かったのだろう。
 
目の前いっぱいに、男物のシャツが広がった。同時に背部に温もりが絡みつく。枢の腕だった。それでようやく、自分の状況を理解する。抱きしめられたのだ。
 
 
「、なっ、!」
 
 
反論しようとすると、まともな言葉になる前に口が覆い隠された。枢の胸板に顔面が押し付けられて何も言えない。
 
 
「、ぁーーか「黙って」」
 
 
尚も言葉を紡ごうとするわたしに、枢が静かに告げた。低い声だった。
 
もう少しだけ抵抗を試みたけれど、押しても引いてもびくともしない腕に包まれて、結局わたしは大人しく抱きしめられることを選んだ。妙なところで頑固な彼は、多分、その気になるまで離してはくれないだろう。
 
そっと瞳を閉じて、静かに脈打つ鼓動に耳を澄ませる。ぶわり、と、男物のコロンが鼻腔をくすぐった。
 
 
「…」
 
 
ぴちょん、雨の雫が垂れる音が響いた。
 
 
ーー少しの静寂と幾許かの時間が経ったころ、枢が静かに口を開いた。
 
 
「…外に、出たい?」
 
 
それは誰に向けて告げられた言葉だったのだろう。
 
目の前のこの男と、囁かれた言葉と。その二つが見事に繋がらなくて、わたしは思わず目を丸くした。
 
 
「え…?」
 
 
驚きの声が漏れる。
背中に絡みついた熱が緩んだのを感じて、わたしはそっと身体を離した。少しだけ肌寒くなる。今度はもう、引き留められなかった。
 
 
「外に出たい…?理知、」
 
 
もう一度尋ねられたのを聞き、先程の言葉が幻聴でなかったことを確認した。それでも信じられなかった。意図を伺うように、わたしは紅色の双眸を覗く。深い瞳は、吸い込まれそうな色をしていた。
 
 
「…枢がそれを聞くの」
 
「…うん」
 
 
混乱を極めた思考から、やっとのことで返事をする。でも彼の意思が今ひとつ理解できなくて、わたしは眉を顰めた。
 
 
「わたしに聞いてるの…?」
 
「…うん」
 
 
「この部屋から出たいかって?」
 
「うん」
 
 
「…わたしを閉じ込めた張本人なのに?」
 
「そうだね…」
 
 
そこまで確認して、今度はわたしが押し黙った。本当に今日の枢はどうしたんだろう。こんな質問をして、何もしないで抱きしめるなんて、普段は、無い。
 
やっぱりなにか、あったのだろうか。
 
不審に思い、もう一度枢の瞳をじっ、と見つめた。長い睫毛が揺れる。理由を問うように目線を送ったけれど、彼は何も語らなかった。ただ、寂しそうに笑うだけ。
 
その表情が昔見たお父さまの微笑みと重なった。知ってる。秘密のにおい。そして、何かを隠しているときの顔。
 
『知らない方が幸せ』…その事を、身を持って知っているわたしは、枢を追求する気にはなれなかった。
 
 
「…理知は、どうしたい?」
 
「言ったら希望を聞いてくれるとでも?」
 
 
最大限の皮肉を込めて、枢の言葉を切り替えす。何を考えているのか露ほども知れない男にこれ以上掻き乱されるのは嫌だった。
 
でも、驚いたことに枢はその言葉を肯定したのだ。小さな仕草で。
 
微かに、でもはっきりと、枢が頷いたのがわかった。
 
ーーその動作で、わたしは意志を伝えることを決意する。
 
 
「…出たいわ」
 
 
静かに言い放ったわたしを、枢はしかと、瞳に写した。
 
 
「…わかった。約束するよ」
 
 
言い終わるや否や視界を枢の整った顔が占領した。一瞬だけ紅い瞳と目が合う。美しい容貌は、腹を立てているような色を呈しながら、妙に目立つ牙を光らせながら、わたしの方へと迫り来た。反射的に背を仰け反らせたけれど、それを阻むように後頭部をがっちり掴まれる。
 
 
「、かなーーっん!」
 
 
ーー呼んだ男から返事はなかった。
 
 
代わりに、燻るような眼差しと、噛み付くような口づけが落とされた。激しい熱が闇夜を攪拌する。
 
 
『理知』
 
 
遠くから、わたしを呼ぶ声が聞こえた気がした。でも、返事をする前に、言葉は思考の闇に溶けていった。
 
 
ーー美しき夜の獣の接吻を、わたしは了承と受け取った。



『了承と了解』
Thursday, June 28th, 2012
理知

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