朽ち果てるまで Book

□変わらない絆
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『リチ、君はもう少しだけ残って』


向けた背後から父様の少し低い声が響いた。振り返ってみるとそこには表情の読めぬ父がいた。祈るように両手を折り合わせ額を休めている。重くて頑丈なはずのマホガニーの机が、きりりと軋んだ気がした。

ぶわりと風を巻き起こしながら重い扉が閉まる。残ったのは父と私と、静寂だけ。それを先に破ったのは父様だった。

「...リチ。一応確認するけれど...先程の言葉の意味、分かっているかな」

私の考えを読まんとするように、父様は私の瞳だけを深く探るように覗き込んだ。

「ええ...侯爵は我が家に婚姻を申し込んだのでしょう」

次期当主のシエルを押さえることで。

「それを踏み台に裏社会に手を広げようとしているのですね。些か先回り過ぎるかとも感じますが」

裏社会は危険だ。何も知らず進んでしまえばそこに広がるのは闇。世界には足を踏み入れたら最後、骨まで食い荒らされてしまう領域が存在する。我がファントムハイヴ家はその場所に立っている。...だがその見返りは大きい。だからこそ我々は存在しているのだ。そして番犬として名を馳せているこの名前を利用 すればそれは明かりとなり、道しるべと共に強大な武器になる。そんな白と黒、表と裏の表裏一体、一発逆転が可能なまるでオセロの駒のようなフャントムハイヴ家はさぞかし甘い香を振りまいているのだろう。闇の夜に咲く濃密な花。月下美人のようなそれは侯爵のような野心家によって抗い難い魅力をもつ。

「...君は聡いね」

「父様の娘ですから」

そう答えると父様はやわらかく笑った。それにつられ私もくすくすと喉を鳴らす。こんな風に二人で笑ったのはいつ振りだろうか。最近の父様はあまりにも忙しそうで少し老けた。お母様も夜な夜な社交だの手紙の返事だのにいそしんでいる。だがこんな柔らかな一瞬があるだけで心は亡くしていないのだと安堵する。
...だが長くは続かなかった。父様は表情を引き締め先程よりも一層、深刻そうに瞳を閉じて、開いた。

「...それとリチ」

どくりと心臓が脈打った。ざあぁっ、と、よりいっそう雨足が強くなる。


「今度、君にもとても大切な話があるから、心の準備をしておくように」



――水が、リズムを刻んで暴れている。



−−−−−−
−−−−
−−
Sideシエル


今日はめずらしくぼくに客がたずねてきた。エリザベスとかいう、わけの分からないうるさい女。

「そんなのかわいくないわ!シエルはこれを着るのっ!!」

とかいきなりわけの分からないことを言い出して、男のぼくにドレスを着せた。

さらにままごとではエリザベスは姉でぼくが弟...次期ファントムハイウ゛家の当主のぼくに失礼千々。わがままにもほどがある。

エリザベスがやったお姉様役だって、ぼくのねぇさまの方がずっとすてき。おやさしいし、きりょうも良いし、ちっともいばってないし。どこを取ってもぼくのねぇさまにかなう所なんてない。そんな女をなんでお姉様なんてよばなくちゃならないんだ。それだけじゃなくてちゃっかりぼくのねぇさまに近づいて気に入られて。ねぇさまはぼくのものなのに。それにお姉様をねぇさまとよんでいいのはぼくだけだ。

エリザベスが帰り急に静かになった室内で、なぜかぼくはたまらなくねぇさまにくっつきたくなった。

「...ねぇさま」

「どうしたの、シエル」

ぼくはなにも言わずにただねぇさまのひざに乗る。そこは温かくて気持ちよくて、いつでもぼくを受け入れてくれているみたいに感じた。シエル?とまた聞かれたけれど、ぼくはやっぱりなにも言わず返事の代わりに両腕をまわしてだっこをせがんだ。

「疲れたのね。無理もないわ...シエルはとても偉かったよ」

「...ほんとう?」

「うん。本当に」

見上げたねぇさまはとてもやさしくほほえんでいる。そのほほえみで、今日一日ぼくのむねとおなかにたまった、暗くてしらないなにかがゆっくりと溶けていくのが分かった。不安、なのかわからないけれど、なにか、きゅうっとなるかんじ。それを早く消したくて、ぼくはねぇさまに顔をすり寄せた。


「...ねー、ねぇさまぁ」

「なぁに?」

「...ううん。なんでもない」

「そう?」

ねぇさまがぼくにこたえてくれた。それだけのことなのに、ぼくはひどく安心する。まるで今日のおやつのゼリーの中にふわふわと浮いているように感じる。

押し当てたねぇさまのむねから、とくとくと心ぞうの音がする。ぼくには、物心つく前からねぇさまがいた。おかあさまに抱かれるより多く、ねぇさまのうでの中にいた。そのうではいつもぼくのためにあって、どんなときもぼくだけを抱きしめてくれる。

だけど、なぜかふと言葉にしたかった。

「あいしてます。ねぇさま」

「!、っ、」

びくっと、姉様の心臓がはねた。ぼくの頭をなでていたきれいな手が一瞬止まる。いいようのない不安がぼくのむねをかけめぐった。安心していたはずなのをもう一度たしかめたくて、ぼくはまた言葉にする。

「ほんとだよ...ぼくねぇさまのことがいちばん好きだよ...」


「...私もよ、シエル。...愛してるわ」


『My Little Prince』とねぇさまが昔の愛称でぼくをよんだ気がした。そう。なにも変わらないんだ。ぼくはずっとねぇさまがすきで、ねぇさまはぼくだけを見てくれるんだ。


(変わらない絆)
(まだ何も知らなかったこの頃。僕は、姉様はいつも僕だけのためだけにいると思い上がっていた)

(夢でもいい−−どうかもう少し、もう少しだけシエルの一番でいさせてください)

(あと何度、君は「愛してる」と言ってくれるのだろう)



Friday, April 22nd, 2011
心の鍵


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