Fleur D'Anemone Book

□真実
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ありえないことを言った。


うそ。
だって枢には優姫が。

息ができないのは、きっと胸に顔を押し付けられていたから。


「……っ、何を」


言っているの、

「だって、枢は、」

「理知」

紡ごうとしていた言葉。だけれど、枢の、あまりにも真剣な眼差しに、押し黙った。何も言えなかった。


「僕は、君がいいよ。理知でなければ、駄目なんだ」


絶え間なく注がれる愛の言葉に頭がついていかない。くらくらと眩暈がする。枢が私を?だってそんなのありえない。だって、だって、枢には、

「優姫は、」

「優姫は関係無い。僕は理知が好きだ。僕の『一番』は、ずっと理知なんだよ」

「……」

「理知」

私の名前を呼ぶ声。それが魔法のとなって凍った私の思考を溶かした。深い海に沈んでゆく錨のようにゆるゆると染みんだとき、私は初めて言葉の意味を知った。
やっと理解できた言葉に、これが現実だとは信じられなくて。

「……ごめん枢。思い切り殴って」

……ものすごく間抜けな言葉しか出なかった。だけれど仕方ないと思う。だって昨日までただの片思いで、相手にはどうでもいいとか思われていたはずの人にいきなり好きだと告げられた。ましてやこの恋が私の唯一の存在の理由だった。例えるなら、昨日まで砂漠だったはずの場所が一晩明けたら海になっていたような衝撃だ。はいそうですかなんて言って信じられるはずがない。

「え?姉さん?」

「お願い。夢なら早く覚めたい」

いらぬ期待を抱いてしまわないうちに、早く。
だって、これが本当のことだとは思えなくて。そんな私の様子に、枢は、なんだそんなこと、と小さく微笑んだ。

「殴るより、確実な方法がある」

「僕の血を飲んで」

え、でも。
そんなことをしたら。ぐるぐると沢山の思いが思考を回転していた。ありえない言葉を次から次へと注がれてやや混乱状態。それでもたどり着いた一つの結論は揺ぎ無く、そして自明の理だった。

僅かな期待を抱いてしまった、私の心が、

――枢が優姫を想っていると、わかってしまったら。

だって、血は嘘をつけない。
真実の味しか、しない。

それで真実を突きつけられてしまったら。
今度こそ、私の心は耐えられないだろう。

だから、絶対できない。

「理知」

いつまでも目を背けて下を向いたままの私に、枢は静に言い放った。どきり、と心臓が跳ねる。だけれど私は絶対に顔を上げない。

血なんか、吸わない。

「……仕方がないね」

静に言い放った枢。そして――


「!!」


刹那、何が起こったのかわからなかった。

いきなりあごを掴まれ、上を向かされて。
その一瞬だけ枢と目が合って。

……だめ

彼が何をするつもりなのか

「やめてっっ!」

唇に押し付けられた、ほんの少しだけ冷たい感触。
それと共に、唇をなぞる液体と、ほのかな香り。
だから私は絶対に口を開かない。

「〜〜!!っっ!!!」

無理矢理舌を侵入しようとしてくる彼に抵抗する。絶対に口を開けない。血なんか、飲まない。身体を傷つけても心を守るつもりだった。

だけれど、息は続かなくて。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。

「!!!」

――唇を開いてしまった。
それと共に流れ込んでくる、濃厚な味。

……うそ

ナニガオコッタノカワカラナイ

ただわかるのは、この血の主は、

――私を、想っている

それは確かな味で。
間違えることは、ありえないくらい、

強い想いで。

「――、」

これは、誰の血?
誰の想い?

わからなくなって、ぐるぐると疑問だけが思考を支配した。冷たかった夜が、一気に沸騰した気がした。それは唇を、脳を、そして心を痺れさせて、身動きが取れなかった。
しばらくして唇を離した彼が、やわらかく私に微笑みながら問いかけた。

「理知?」

夢じゃない、
意識が覚醒すると共に、顔が瞬時に紅潮した。

「え、でっ、でも、優姫は」

クスリ、と枢は笑った。そんな微かな仕草も、きれい、だった。

「優姫は錐生君が好きなんだよ」

姉さんも知ってるでしょう?

「こうでもしないと、まわりのヴァンパイアは納得しないだろうからね……」

つまり、僕はカモフラージュ。珍しくクスクスと可笑しそうに笑う枢にいつもなら見とれていたはずだったけれど、今の私にはそんな余裕は無かった。

優姫が?零と?
…枢が、私を??
信じたいけれど、信じられない。

優姫……。そうだったの……?そう思ったと同時に、三日前の惨劇を思い出す。

「どうしよう、私、優姫に酷いこと言っちゃった……」

あのときは優姫を罵倒でもしていないとどうにかなりそうでどうしようもなかった。自分の言った酷い言葉に思わず青くなる私を見て、枢はクスリと笑った。

「僕は嬉しかったけれどね」

姉さんが表立って嫉妬してくれるなんて珍しいから。

「血、付いちゃったね」

今度はやわらかく私に触れて、優しく顔を上げさせられる。そしてペロリ、と質感を伴った、少し生ぬるくて温かい舌が、私の口まわりを拭った。…まるで母犬が子犬を舐めるように、くすぐったくて、恥ずかしかった。

「や、……っ、ちょっとかな…んっ!!!」

そして、優しい口付け。

ああ、何て甘いのだろう。
愛しているモノと絡み、味わうのはなんと甘美なものか。

「んっ、はっ、」

余裕がなくて、息が漏れる。
優しく絡みあう二人を、いつの間にか再び現れた月光が照らす。優しい春の夜風が演奏されていた華やかな夜想曲を運ぶ。でもそれは二人ぼっちの世界に住んでいた二人の耳には届かなかった。貴方と私がいる。それが世界の全て。今はただ、それだけで十分だった。

「ね、かなめ、」

もう一度、言って?

彼の胸に顔を埋めて、小さくおねだりする。

「クスッ、いいよ、僕だけのお姫様」

何度でも言うよ、
君のためなら――


「愛してるよ、理知」



「僕と共に、永い永い時を、生きて?」




Fin.
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