敵同心。
□5. 巡り会ひて
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「……」
時間が止まっていた。
玖蘭枢、この男の瞳が視界に写った瞬間、時が止まり、全身に電撃が走った。息は止まり、鼓動は逸り、衝撃に耐えきれず心臓が焼き切れるかと思った。身体が痺れる。この男の存在が強烈すぎて私の頭は働かない。神経がぴりぴりと震えて、立っているのも耐えられないほどの緊張を感じた。地面が揺れて、眩暈がする。
二人の目が合った瞬間、一体何が起こったのかわからなかった。刹那が永遠に変わり、夜風に凍えた指先が、感情が、あっと燃え上がった原因が、何であったのか。
(ヴァンパイアに近づいてはいけない――)
麻痺した思考に、遠い過去から幼いころに繰り返し聞かされた教訓が蘇った。声の主は忘れてしまった。協会の誰かだったのかもしれない。顔の無い人物の言葉は、吹き荒ぶ夜の風に乗って、残像のように蘇った。
(ヴァンパイアに近づいてはいけない――)
繰り返し繰り返し、まるで狂ったレコードのようにその言葉だけが脳内で再生される。逃げなくちゃ。脳の、僅かに働いている部分で思ったけれど、情報は四肢へ伝達される前にばらばらと崩れていった。理屈が意識の片隅で空回りしているのがわかる。
「こんばんは」
すると、会話どころか気が動転して意識を保持することすら儘ならない私に夜の王は構わず囁いた。いつ私に近づいたのか、眼前をふさぐように立つ男に絶句したけれど、逃げる気力はもはや残っていなかった。挨拶をされただけなのに、彼の言っていることが難解すぎて理解できない。何が何だかわからない。それでも、乾いた喉から返事を無理矢理絞りだした。
「…こん、ばん、は」
確かめるように一言一言、慎重に言った。舌が回らない。だがそれを聞いて満足したのか、玖蘭枢は会話を再開した。
「僕は玖蘭枢。ナイト・クラスの寮長兼クラス長でね…一応、『はじめまして』かな。デイ・クラスの、錐生理知さん」
「…私の事、知ってるんですか」
「勿論知っているよ、小さな狩人さん。高等部二年、ハンターで錐生君の従姉。もっとも、零には似ずに可愛いけれどね」
回転しきっていない頭で放たれた言葉を懸命に拾った。なんだ。バレていたんだ。ぼんやりとする意識の片隅で思ったけれど、そもそも万能の純血種の前で自分のちっぽけな術式が効く方がおかしいと妙に納得してしまった。茫然と立ち尽くす私の前で、玖蘭枢は穏やかな笑みを浮かべながらこちらを伺っていた。
「それで、狩人さんは何故ここにいるのかな」
その言葉ではっと現実に引き戻された。慌てて半開きになっていた口を閉じる。うっかり意識を飛ばしてしまっていた自分を叱咤し言葉を紡ぐ。
「忘れ物、を、してしまったんです。昼間に。大事なものだから、それを取りに、ここへ」
噛みしめるようにそう言うと、彼は少し考えるような仕草をしてから、ゆっくりと懐から何かを出した。鈍色の、槍状が特徴的な短剣。茶色のケースから覘く柄には蛇の紋章が刻まれていた。
「アティーナ!!」
「やっぱり君のだったんだね。さっき来る途中で拾ったんだ」
くすりと笑いながら語る彼から愛しの武器を返してもらおうと玖蘭枢に駆け寄った。純血種の存在感に熱い手で心臓を掴まれたような恐怖を感じたけれど、あえてそれを無視して近づいた。ところがアティーナを受け取ろうと腕を伸ばした瞬間、彼は、華麗なまでに無駄の無い動作で、もう一度さっと武器を懐に仕舞った。
「…え?」
間抜けな声を出してしまったのは私の落ち度ではないだろう。少なくとも私は認めない。だが私の反応がおかしかったのか、彼はクスクスと笑いを止めない。意を知ろうと恐る恐る目を合わせると、玖蘭枢の瞳は愉快そうに歪んでいた。長い睫毛に縁取られた瞳は濡れて、光って、――笑っていた。
「駄目。返さない」
何をいっているのだ。この男は。
「…は?」
「これを、アティーナを君には返さない。少なくても今夜はまだ僕が預かっておく」
玖蘭枢が何を言ったのか俄かには信じられず、茫然と立つことしか出来なかった。え、機能しきっていない頭で告げられた言葉を振り返ってみる。アティーナを返してくれない?何故?ぐるぐると悩んでいると、彼はもっと理解に苦しむ事をのたまった。
「返して欲しかったらまた明日もこの時間においで?」
「は?」
「それじゃあ、今日のところはさようなら。おやすみ、理知」
そう告げると、玖蘭枢は足早に校舎の方へ去っていった。わたしはただ、何が起こったのか理解できず、呆けながら遠ざかる姿を見送るしかできなかった。完全に玖蘭枢の後ろ姿が消えたのを確認し、しばらく経って、私ものろのろと日の寮へと足を進めた。相変わらず頭と体が上手く協調してくれない。よろめきながら、とりあえず、歩く。
(ヴァンパイア――)
もう一度、あの言葉が脳裏をよぎった。主を知らない、低くて哀しくて、でもどこか、酷く懐かしい声。
(ヴァンパイアに近づいてはいけない――)
玖蘭枢と対峙した衝撃から立ち直りきれず、ふらふらとした足取りをしながら考えた。続きは、なんだっけ。何十、何百、何千回と繰り返されていた言葉の先を自分の意識に問いかける。なんで、だっけ。なんで近づいたらいけないんだっけ。
風が吹いた。草木がざわめた。突然吹き抜けた強い夜風に、木の葉がぶわりと舞い上がった。
あぁ、そうだ。
(ーー近づいたら、その瞳に、囚われる)
純血種という存在。紅の瞳。思い出しただけで鳥肌が立った。どくりと心臓が脈打った。
玖蘭枢。
夜の世界を統べる王に、私はもう、囚われてしまったのだろうか。
『巡り会ひて』
Friday, May 25th, 2012
理知