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□世界は僕が引き受ける
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「お空って青いの?お兄さま」


ただ一点も曇りの無い瞳で君は尋ねた。


「そうだよ。空は青くて広いんだよ、理知」


純粋は質問に答えながら、僕は彼女の「兄」を演じる。優しいお兄さまに相応しい、穏やかな笑みを浮かべて。


――この少女は、何も知らないのだ。


空が青いことを、海が深いことを知らない純粋無垢な少女。熱い情熱も、湧き上がる悦楽も、震えるほどの怒りの感情も、身を引き裂かれるような悲しみや絶望も、理知の世界には存在しない。真綿に包まれて生きる少女は、生の本質がどれほど残酷で汚く醜いか、見当もつかないのだろう。


失うということ、悲しむということ、己の存在の不条理と悍格に苦しみ、絶望しながら、それでも、世界は美しいということを。


目の前の彼女は何も知らないのだ。


この優しい時が少しでも長く続けばいいと思いながら、早く君に全てを知ってほしいと願う自分がいる。荒れ狂う世界に疲れ果て、しばしの休息と穏やかな時間は僕の望みでもあったのに。


「きっと、とてもきれいなのね」


幸せそうに細められた瞳が、いつか見た懐かしい微笑みに酷く似ていて、僕は思わず双眸に見入った。美しい青の、心の窓の奥の奥に到達できればあの日失った君を少しでも感じられるのではないかという淡い願望を抱きながら。


「お兄さま?」


「…ううん、何でもないよ」


小さく首を傾げながら理知は僕を呼ぶ。


今、僕の知る君はいない。幾万もの夜を共にしながら、気の遠くなるような時間をたった二人で支え愛しながら歴史を刻んできた彼女は忘却の彼方にある。早く思い出せばいいのに、独りで歩み続けなければならない苦しみに押しつぶされそうになってそう望む自分がいた。


返事を聞いて安心したのか、理知は意識を手放した。僕の腕の中で満足そうに微笑みながら、まどろむ少女は一体何を夢見ているのだろう。


独りは辛いけれど、でも、君が優しい世界で笑っていてくれるのならば、もう少し頑張ってもいい、と思う。



「君」が静かに眠っている間、世界は僕が引き受けるから。



Thursday, May 17th, 2012
(Thursday, February 14, 2013 移動)
理知


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